歩・探・見・感

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ノスタルジック、レトロ、ディープそしてマイナーな世界へようこそ

花と緑の散歩道と別所沼公園

何か見落としているものがないかとさいたま市南区別所を再探索した。

今回はその中で出会ったものをいくつか紹介していこう。

 

訪問日 2023年1月12日、17日

 

別所沼公園付近から武蔵浦和駅付近まで暗渠となった別所排水路が「花と緑の散歩道」として整備されている。

【所在地】さいたま市南区別所5・6・7丁目付近

 

散歩道の両側には、桜、アジサイが植えられている。

春は満開の桜回廊、初夏は色とりどりのアジサイ、秋は紅葉、冬は整然と立ち並ぶ木立の姿、四季折々の表情を見せる。

 

この散歩道は以前も歩いたことがあり、道のあちこちに立てられた標識や注意看板に並べて一緒に可愛い絵が描かれた円形看板がある。これら存在に気が付いてはいたのだが、写真はほとんど撮っていなかった。

 

特にこの先当てもなく、時間もあるので、全部写真を撮ってみることにした。

 

全部で16種類ある。

それらを読みながらブラブラと道を歩いてみよう。

 

①時間をあげよう

国際芸術祭 「さいたまトリエンナーレ2016」 出品作品
[作品名]時間の道 
     Road of Time
[作家名]ウィスット・ポンニミット / タイ
     Wisut PONNIMIT / Thailand

ウィスット氏の漫画から飛び出したキャラクター「マムアンちゃん」 による「ひとことシリーズ」を展開。 未来の発見を誘うウィットある一言が添えられ、 普段何気なく通り過ぎる散歩道での日常に新鮮な視点を生み出します。 花と緑の散歩道各所で展示中。
(さいたま市文化振興課)

「マムアンちゃん」はタイ語でマンゴーの意味らしい。

 

ウィスット・ポンニミット(Wisut PONNIMIT)
1976年、タイ・バンコク生まれ。愛称はタム。1998年バンコクでマンガ家としてデビュー。2003年から2006年神戸在住の後、現在バンコクを拠点に作品制作中。「マムアン」シリーズ、『ブランコ』(小学館)、『ヒーシーイット』 (ナナロク社)などマンガ作品多数。横浜トリエンナーレ2005に参加。2009年『ヒーシーイットアクア』が文化庁メディア芸術祭マンガ部門奨励賞受賞。2015年バンコクで個展「MELO HOUSE」を開催。アニメーションや音楽制作も行い、音楽作品に原田郁子との共作「Baan」(2013年)がある。

 

②昨日の「バツ」が今日の「マル」になったりする

 

③新しい思い出、ようこそ。

 

④今はミラクルだ

 

⑤今の私から、将来の私へのプレゼント

 

⑥死ぬ前に、生きるんだ。

 

⑦今日の私が一番新しい私だ

 

⑧新しい時代は新しい私へ

 

⑨私は毎秒毎秒新しくなって、なっていくんだ!

 

⑩昔の自分に元気をもらおう

 

⑪将来と過去の間のスペース

 

⑫散って、咲いて、成長して。

 

⑬未来の私、愛してるね

 

⑭昔の私、ありがとうね

 

⑮私の歴史に君がいて嬉しい

 

⑯君のことは全ていい思い出になる。

これが最後のもの。

 

別所沼方面から歩いてきたのだが、散歩道の左右に設置されているので、多少順番が異なっているかもしれない。

 

心に響く言葉はあっただろうか?

 

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2023年3月21日

桜が咲いていたので、再訪。

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別所公民館に石碑があったので、立ち寄ってみた。

祠はこの石碑のそばになく、敷地の端に鎮座していた。

しかし、逆光がすごくて、撮らなかった。

 

まんざらく様

縁起
此の祠は農家共有の通称一本杉と呼ばれる総面積一八四坪の灌漑用溜池の辺りに祀られていたもので古老の口伝によれば「まんざらく」様と称し一時は信仰の対象として隆盛を極めたとのことである。
今次近隣の発展に伴い市の公民館建設用地に提供し一画を分筆してここに祭祀した。
昭和五十三年四月吉日
浦和市別所農家組合

 

花と緑の散歩道から歩道橋を渡ると別所沼公園だ。

 

別所沼公園

公園の名前ともなっている別所沼は、洪積台地である大宮台地の谷中に位置し、台地からの湧水などが低地にたまってできたと考えられている。 沼は釣りも可能で、噴水や弁財天がある弁天島がある。沼の周囲にはメタセコイアなどが生い茂り、その間を抜けるように散歩・ジョギングコースが設定されている。

 

メタセコイアと噴水

冬の景色が広がる。

 

別所沼にいる「浦和うなこちゃん」

高さ約30センチ、重さ約18キロ。

浦和うなこちゃんは浦和のウナギをPRするキャラクターとして、市内のウナギ料理店が組織する「協同組合浦和のうなぎを育てる会」が、アンパンマンなどで知られる漫画家の故やなせたかしさんにデザインを依頼し、2009年5月、同会が市に寄贈し、別所沼で弁財天を祭る「弁天島」の入り口横に設置された。

これが行方不明になったことがあるらしい。

その経緯を追ってみよう。

2015年11月17日
公園の清掃員がなくなっているのに気が付いたらしい。ボルトと接着剤で台座に固定されていたにもかかわらず、何者かによって台座から外され、持ち去られたそうだ。
コレクターの仕業か、イタズラか、それとも家出なのかと話題になったそうだ。

2016年5月24日
地元のうなぎ料理店でつくる「浦和のうなぎを育てる会」では、なんとか5月28日の「うなぎまつり」までに見つけてあげたいと、捜索を依頼したそうだ。
うなこちゃんの重さは18キロと重いので、持ち帰ることが出来ずに沼に沈めたのではないかということで、ダイバーが4人、水深約1mの弁天沼周辺で行方不明中の浦和うなこちゃんを約3時間にわたって捜索したが、発見できなかったそうだ。

 

2016年7月30日
土用の日、再設置されたそうだ。

彩の国さいたま芸術劇場 出演者手形レリーフ

訪問日 2023年1月9日

 

彩の国さいたま芸術劇場

逆光でうまく撮れない。

囲に覆われていた。

 

大規模改修中だった。

昭和50年代末に、埼玉県の中期計画で「県民芸術劇場(仮称)」として建設が計画されたことに端を発する複合文化施設で、建設予定地決定・建設用地取得までが昭和に、基本計画の決定 及び 建物の着工・竣工が平成の初頭に行われ、1994年(平成6年)10月に開館。

休館期間(予定)令和4(2022)年10月3日~令和6(2024)年2月29日まで

 

これは与野郷土資料館に展示されていた写真。

彩の国さいたま芸術劇場ができる前は古谷製菓の東京工場だったことを初めて知った。

現在の古谷製菓はどうなっているのだろう?

 

これは、また脱線しそうだ。

悪い癖だが、仕方ない。

しばらく付き合っていただこう。

 

古谷製菓はかつてはキャラメルでは明治、森永につぐ第三位のメーカーであったらしい。

調べてみたところ、1984年(昭和59年)5月に倒産してしまっていた。

その間はどうなっていたのかキニナル。

倒産してしまっているので、あまり情報がないが、古谷製菓について書かれていた方がいたので、参考にさせて頂いた。

元社長の家について(「motoguzzi な おじさんの趣味とこだわりについて・・」さんより)
『高台にそびえ建っていて、楢の木やクヌギの木が茂り、青々した芝生が広がる敷地が300坪以上ある大邸宅だった。
「古谷」と達筆で書かれた陽に焼けた木の表札がかかった大きな玄関があり、城のような石垣の上に建つ塀と立派な門が僕等が集団登校していた道に面していた。』
だったらしい。
浦和市内の高級住宅地はいくつか思いつくが、高台?

どこだったのだろう?

そして、今はどうなっているのだろう?

 

「咲いた万歩」さんの調査結果を参照

平成10年与野市教育委員会発行『与野まち風土記』[まちの歴史]【上峰】
昭和27年(1952)フルヤ製菓創業開始

前身の古谷商店として創業したのが、1900年(明治33年)とある。
古谷製菓株式会社に商号変更したのが昭和27年となっており、この年を創業開始としたのか?

平成14年発行『与野商工会議所創立50周年記念誌』与野商工会議所の出来事
昭和39年(1964)11月 古谷製菓東京工場新築落成
昭和51年(1976)10月 古谷製菓東京工場敷地に「ジャスコ」誘致計画発表

東京工場はこの間約12年操業していたと思われる。

 

創業者の孫が1988年(昭和63年)2月 - 札幌市中央区南11条西18丁目に「ショコラティエ マサール」を創業していたことがわかった。

そして、2021年02月、北海道民に愛された<フルヤのウインターキヤラメル>が 約40年ぶりに冬季限定で復刻販売されたそう。

また昨年から冬季復刻販売が行われている。

販売期間:2022年12月2日(金)~2023年3月31日(金)までの毎週金曜日午前10時から販売。
売店舗:ショコラティエ マサール本店、札幌三越店、大丸札幌店、オンラインショップ
販売個数:各店舗1日40個 オンラインショップ1日13個

1箱10粒入 864円(税込)

復刻の経緯がホームページに載っていた。

書いてあることより実際は大変なことだったと思う。

ドラマになりそうな内容だ。

 

さて、ようやく本題に戻ることにしよう。

 

彩の国さいたま芸術劇場 出演者手形レリーフ設置事業

彩の国さいたま芸術劇場 出演者手形レリーフ設置事業
JR与野本町駅から彩の国さいたま芸術劇場に至る経路に、芸術に親しみ、 身近に感じていただくため、 劇場出演者の手形レリーフを設置します。 設置する手形レリーフは、主に、 「ハムレット」 「マクベス」 「オセロー」 「リア王」をはじめ、「ロミオとジュリエット」 「ヴェニスの商人」 など 多くの傑作を残した英国の劇作家であり、詩人であるウィリアム・ シェイクスピアの戯曲全37作品を上演する企画「彩の国シェイ クスピア・シリーズ」に出演した方々のものです。

「彩の国シェイクスピア・シリーズ』とは
「彩の国シェイクスピア・シリーズ」は、 彩の国さいたま芸術劇場において、 シェイクスピア作品全37作品 を上演する目的で企画されたもので、 蜷川幸雄初代芸術監督のもと、 1998年(平成10年)から上演が開始 されました。 現在は、日本を代表するシェイクスピア俳優である吉田鋼太郎2代目芸術監督がシリーズを牽引しています。 主催は公益財団法人埼玉県芸術文化振興財団。 企画は彩の国さいたま芸術劇場シェイクスピア企画委員会 が行っています。
芸術劇場での上演歴は次のとおりですが、 日本国内や海外でも上演されています。

 

パンフレット

これにはまだ載っていない人がいる。

それは誰だろうか?

答えは・・・、

探してみよう。

 

与野西中学校の正門前のアートストリートエリアには、故蜷川幸雄氏が演出した「彩の国シェイクスピア・シリーズ」に出演した俳優たちの手形レリーフが32枚も並んでいる。

さいたま市の資料では手形の設置年は以下のようになっていた。

平成23年度 蜷川幸雄吉田鋼太郎安蘭けい阿部寛大竹しのぶ窪塚洋介 6名
平成24年度 松坂桃李山本裕典・月川悠貴・勝村政信 4名
平成25年度 市川猿之助高橋克実 2名
平成26年度 菅田将暉白石加代子藤原竜也横田栄司平幹二朗 5名
平成27年度 市村正親・田中裕子・瑳川哲朗溝端淳平 4名
平成28年度 藤木直人多部未華子辻萬長 3名
平成29年度 六平直政・大石継太・柿澤勇人 3名
平成30年度 木場勝己中河内雅貴 2名

合計29名だ。

あれ、あと3名。

蜷川幸雄阿部寛安蘭けい石原さとみ市川猿之助市村正親・大石継太・大竹しのぶ柿澤勇人勝村政信木場勝己窪塚洋介瑳川哲朗白石加代子菅田将暉高橋克実・田中裕子・多部未華子・月川悠貴・辻萬長寺島しのぶ中河内雅貴平幹二朗藤木直人藤原竜也松坂桃李溝端淳平宮本裕子六平直政山本裕典横田栄司吉田鋼太郎

抜けていたのは石原さとみ寺島しのぶ宮本裕子だった。

調べたところ、設置年月が分かった。

令和元年8月 寺島しのぶ

令和2年3月 宮本裕子

令和4年3月 石原さとみ

 

知らない方もいたので、すべては撮らなかった。

撮ったのを数えたら13名だった。

思ったより少なかった。

 

蜷川幸雄

吉田鋼太郎

阿部寛

大竹しのぶ

松坂桃李

菅田将暉

藤原竜也

市村正親

田中裕子

溝端淳平

藤木直人

多部未華子

石原さとみ

一番最後は石原さとみ

ベテランから若手までそうそうたる方たちだった。

自分の手と比べてみるのも楽しいかもしれない。

恵比寿から原宿までちょこっと散策

散策日 2023年1月10日

 

恵比寿駅

ドラマ「夕暮れに、手をつなぐ」のポスター

山手線1番線ホーム(外回り:新宿方面)側にある。

 

永瀬廉のアップ

「全角度国宝級」のイケメン

確かに!

 

渋谷

【渋谷ハチ公前広場】SixTONES『声』ポスター

 

以前はいなかったと思うが、ハチ公前広場に大黒様現る。

特殊メークアーティストAmazing JIROさんの作品。

 

どこかの店舗にあった

 

原宿

ルイ・ヴィトン×草間彌生の限定ストア

 

覗いてみたが、何だかわからなかった。

帰ってから調べてみたところ、草間彌生とのコラボの作品だった。

おじさんはこのようなところに入る勇気がない。

 

明治神宮

代々木の説明板

「の」の文字だけ光っている。

たぶん太陽に光が当たっているだけだと思う。

 

少し雪が積もったようにも見える木々。

そこに太陽の光が差し込んでいる。

 

北参道

電力プレート サクラギ-7

以前、発見していたものだが、再訪して現存を確認してきた。
未紹介だったので、紹介することにしよう。

 

発見日  2021年10月23日(再訪日2023年1月7日)

発見場所 東京都台東区上野桜木一丁目

旧「上野桜木町」時代のものと思われる電力プレート。

茶色のペンキに塗られ、一部が隠れているので、気が付きにくい。

 

この建物に付けられていて、気になったもの。

「太神楽曲芸 十二代家元 鏡味古仙」とある。

以前はよく寄席に行っていたのだが、芸目の一つに太神楽があり、よくあんなことができるなといつも感心していた。

「十二代家元 鏡味古仙(かがみこせん)」について調べてみた。
  昭和24(1949)年~ 昭和56(1981)年 12月 5日
  昭和24(1949)年、江戸太神楽丸一の十二代目家元となる。

 

さらに調べていると太神楽曲芸の協会があることがわかった。

そのホームページに太神楽についての解説が書かれていたので、載せておこう。

太神楽(だいかぐら)は、古くから神社を祭る式楽、舞楽(ぶがく)より生じ、伊勢、尾張(熱田)、水戸などが代表的発祥地と伝えられています。

戦乱が収まり徳川家康江戸幕府を開府すると、太神楽師達は各大名に付いて地方へ広がり、獅子舞で氏子の家々を御祓(おはらい)する風習が生まれました。

このように神様への奉納、氏子への祈祷などが主体の【神事芸能】としての太神楽でしたが、その後寄席の出現などに伴い【舞台芸能】へと変化をしていきます。
獅子舞の余興として演じていた曲芸は、娯楽を提供する【寄席芸能】へと発展していきました。

江戸時代に広まったこの太神楽曲芸は、明治・大正・昭和と時代と共に技芸を発展させて、平成の現在へと受け継がれている伝統芸能です。

太神楽は『舞』『曲芸』『話芸』『鳴り物』の四つの柱から成り立っています。

【舞】    獅子舞・恵比寿大黒舞など
【曲芸】    投げ物(撥・鞠・ナイフ・輪など)
立て物(傘・五階茶碗・皿など)
【話芸】    掛け合い茶番(源三位頼政・祐兼参詣・五段目・鹿島の舞など)
【鳴り物】    下座音楽・祭囃子など
この様に太神楽は芸能の原点と云うべき要素を揃えており、時代に合わせた演出で観客の皆様に楽しんで頂いております。

 

寄席でよく見かけたのは、この中の曲芸だった。

その中の一つを紹介しよう。

土瓶の曲

土瓶の曲

太神楽曲芸協会より》

くわえた撥の上に土瓶を乗せ、この状態から様々な技を繰り出していく。

主な技は
・前後へ滑らす、横にして前後に転がす
・手を使わずにフタを取る
・勢いよくその場で回転させる
・宙返り
である。

写真の人物は今は亡き「鏡味 仙三郎」師匠である。

よくこの方の舞台を拝見したものだ。

 

興味がある方は寄席に足を運んでみてはいかがだろうか。

都内には新宿末廣亭新宿三丁目)、鈴本演芸場(上野)、池袋演芸場(池袋)、
浅草演芸ホール(浅草)などあり、2000円から3000円で一日中楽しむことができる。

 

あ~、かなり脱線してしまった。

全然電力プレートとは関係がない。

さて、戻ろう。

どこへ?

旧町名の話題に。

 

上野桜木町の旧町名由来案内が2種類あった。

書かれている内容が異なるようだ。

 

旧町名由来案内①

上野桜木町は、上野台とその東側山麓に広がっていた。上野台部分は上野花園町から独立したころで寛永寺域であったことからその子院が数多くあった。本町内にある寛永寺本堂は、慶応四年(1868)の彰義隊の戦争により寛永寺本坊はじめほとんどが焼失したため、寛永年間(1624~1643)に建てられた川越喜多院本堂を明治十二年に移築したものである。東側山麓にあたる現在の根岸一丁目二番付近は谷中村の飛地であった。
本町ができた年代は明治七年から同十一年二月の間と推察する。そして町名のいわれは、この付近に桜の木が多くあったことに由来する。

台東区下町風俗資料館付設展示場」
谷中は、震災や戦災で大きな被害を受けることのなかった数少ない地域である。このため寺院をはじめ古い建物が比較的多く残っている。この付設展示場は江戸商家の建築様式をもつ酒屋で大変貴重な建築物であることから、昭和六十二年に保存のため現地へ移築された。

 

旧町名由来案内②

上野桜木町は、上野公園北側の寛永寺寺域と上野台の東北麓(現在の根岸一丁目一番西側および二、三番の大部分)に二分されていた。前者は、上野花園町から独立した区域であり、後者は、谷中村の飛地であった。起立年代は、明治七年から同十一年二月の間と推察する。
町名のいわれは、桜の木が多くあったことに由来する。
町内にある寛永寺は、寛永二年(1625年)徳川三代将軍家光のとき建てられた。家光は、江戸城の艮(ウシトラ)の鬼門を鎮護するため、川越喜多院天海僧正に命じて建てさせたものである。寛永寺には、徳川家の墓所として六人の徳川将軍の霊廟がある。

 

旧町名由来案内の①と②、どちらが新しいだろう。

そんなこと誰も気にすることはないと思うが、自分はとても気になるのである。

下記の理由から②の方が新しいと考える。

・旧町名区域図の色の退色具合
・名所に浄名院が追加になっている

 

町会

 

街区表示板

 

歴史

1874年(明治7年)頃から1878年明治11年)頃までの間に上野花園町から独立して、上野桜木町として起立したと考えられている(下谷・浅草町名由来考)。

町域は、江戸期の谷中村飛地(上野台の東北麓。現在の根岸一丁目1番西側及び1・3番の大部分)と徳川氏廟所火除地(上野台上。上野公園の北側)の2つからなっていた。

1965年(昭和40年)8月1日
住居表示の実施により、谷中村飛地であった所は根岸一丁目1~3番になる。

1967年(昭和42年)1月1日
火除地であった所は上野桜木一・二丁目、上野公園にそれぞれ編入となった。

浄名院の山門と東京放送局聴取章&プレート類 

浄名院の山門の脇塀にプレートが付いているのだが、以前撮っていたことも忘れ、また撮ってしまった。

でも、最初撮った時は気が付かなかったが、今回の再訪でその中に貴重なものが混じっていることが判明した。

 

発見日  2021年10月23日(再訪日2023年1月7日)

発見場所 東京都台東区上野桜木2-6-4

 

浄名院の山門

江戸中期の享保年間(1716-1735年)建立。

 

右側の山門の脇塀にプレートが付いている。

 

確認できるのは7枚



左から見ていこう。

 

①固定資産税家屋調査済証

下の部分が切り取られてしまっている。

 

東京放送局聴取章

劣化が進んでしまっているものだが、東京放送局聴取章を発見。

こんなところにも設置されていたとは驚きだった。

番号は第241736番だろうか?

これで何枚目だ?

古い建物をよく探せばもっと見つかるかもしれない。

 

下谷区時代の?プレート

劣化していて何のプレートかよくわからない。

 

④関東配電時代の電力プレート

関東配電株式会社は1942年から1951年まで存在した企業。日本最初の電力会社東京電燈の後身であり、現在の東京電力グループの前身にあたる。

 

⑤東電の電力プレート

 

⑥電力プレート?電話プレート?

劣化していて上部の文字が分からない。

最初の文字は「東」ではなく「電」のようにも見える。

中央の数字は電話番号みたいだが、このような電話プレートは見たことないし、やはり電力プレートなのだろうか?

旧町名&電力プレート 中央区日本橋浜町

日本橋浜町は現存している町名だが、住居表示実施前のものなので、旧町名扱いとしている。

 

中央区日本橋浜町二丁目四〇番地

発見日 2021年9月25日


②ハマチヨ1-7

発見日 2023年1月7日

自分の記録にはなかったので、これは初見のものかもしれないが、確信はない。

 

町名と関係ないが、「ハマチヨ」を漢字にすると「浜千代」「濱千代」になる。
「浜千代」「濱千代」という苗字もあるし、「浜 千代」「濱 千代」という氏名にもなる。

 

中央区日本橋浜町一丁目1番の街区表示板

 

探索途中で史跡を発見した。

賀茂真淵縣居(あがたい)の跡

 

以前は久松町の交差点に近いジョナサンの入っているビルの壁に平成元年七月に設置された説明板があったようで、その以下の内容だったようである。

 

賀茂真淵県居の跡

都指定 大正七年四月
所在地 中央区日本橋浜町一ノ四付近
古歌をとおして、わが国の古典学の基礎を築いた賀茂真淵(一六九七~一七六九)は、現在の浜松市の出身で、はじめ京に出て荷田春満(かだのあずまろ)に入門し、元文二年(一七三七)江戸に下り、田安宗武(徳川三卿の一人)に迎えられ、和学を講じた。
隠居後、浜町山伏井戸の東方に住み、縣居の翁と称し、「万葉考」「歌意考」「国意考」「祝詞考」等を著した。また歌会なども多く開き、その作品は今に伝えられている。

あがた居の茅生の露原かきわけて
月見に来つる都人かも

その旧跡は、この地点の北東約百メートルのあたりである。

 

令和四年三月に新しく設置されたこの説明板は、更に詳しいものになっていた。

 

所在地 中央区日本橋浜町一丁目一番付近

東京都の文化財として旧跡指定されている賀茂真淵縣居の跡は、現在の日本橋浜町一丁目一番付近にありました。
賀茂真淵(一六九七~一七六九)は、古代の古典研究に努め、国学の基礎を築いて大成した人物です。真淵の著名な門人には、本居宣長・加藤千蔭・村田春海・楫取魚彦などがいます。 賀茂真淵は、遠江国敷知郡伊場(現在の静岡県浜松市東伊場)にある賀茂神社神職・岡部政信の子として生まれました。京に移って荷田春満のもとで学んだのち、元文二年(一七三七)に江戸の本郷湯島において居をかまえました。 その後、田安宗武 (徳川御三卿の一人)に仕えて、彼に国学を教えました。
隠居後の明和元年(一七六四)には、信濃国須坂藩堀家上屋敷(現在の日本橋久松町七・八・九十番) 東の山伏井戸と呼ばれる井戸の近くにあった旗本細田家の土地百坪を借用して転居しました。田安家や門人たちの助力もあって住居の完成に至り、田舎風な住居を意味する「縣居」を堂号とし、自身も縣居あるいは縣主などと称しました。なお、この地で、万葉集を注釈した『万葉考』や賀茂真淵国学全体について述べた『五意考』などを著しました。さらに、縣居で歌会なども多く開催されて、その作品は今に伝えられています。

あがた居の茅生の露原かきわけて
月見に来る都人かも

『賀茂翁家集』所収

 

以前の説明板の所在地は「日本橋浜町一ノ四付近」となっていたが、最新の説明板の所在地は「日本橋浜町一丁目一番付近」となっているのが気になるところだが、隣なので両方含んでいたということかな?
書かれている内容より所在地の違いが気になってしまう自分なのであった。

 

歴史

1878年明治11年)11月2日
郡区町村編制法施行により、日本橋区が設置される。
浜町一丁目、浜町二丁目、浜町三丁目

1889年(明治22年)5月1日
市制施行に伴い東京市となる。

1943年(昭和18年)7月1日
東京都制が施行され、東京市東京府が廃止され、東京都を設置。

1947年(昭和22年)3月15日
京橋区と合併して中央区を新設。旧区域内の町名に「日本橋」を冠称。

1971年(昭和46年)4月1日
住居表示実施。

 

地名の由来

昔は海浜の面影を残していたため、浜町の名が生じたといわれていますが、俗称であったようです。(中央区ホームページより)

元三島神社と一乗寺の花手水

たまにはこのようなものを単独で紹介するものいいだろう。

 

訪問日  2023年1月7日

 

①元三島神社(東京都台東区根岸1-7-11)

 

一乗寺(東京都台東区谷中1-6-1)

この案内に誘われて境内へ

ホームページに花手水のページがあった。 

一乘寺について | 日蓮宗 大法山 一乘寺 (kado-ichi.com)

 

東京23区内だけでも花手水を実施している神社や寺院は30か所以上もあるそうだ。

荒川区】 素盞雄神社(すさのおじんじゃ)
      尾久八幡神社おぐはちまんじんじゃ)

大田区】 新田神社(にったじんじゃ)
      穴守稲荷神社(あなもりいなりじんじゃ)

【北区】  七社神社(ななしゃじんじゃ)

【品川区】 蛇窪神社(へびくぼじんじゃ)

【渋谷区】 香林院(こうりんいん)
      鳩森八幡神社(はとのもりはちまんじんじゃ)

【新宿区】 萬年山 法輪寺(ほうりんじ)
      龍泉院(りゅうせんいん)
      陽運寺(よううんじ)

【世田谷区】松陰神社(しょういんじんじゃ)
      桜神宮(さくらじんぐう)
      三峯神社(みつみねじんじゃ)

台東区】 三島神社(みしまじんじゃ)
      元三島神社(もとみしまじんじゃ)
      下谷神社(したやじんじゃ)
      上野東照宮(うえのとうしょうぐう)
      浅草神社(あさくさじんじゃ)
      不忍池辯天堂(しのばすのいけべんてんどう)

千代田区日枝神社(ひえじんじゃ)
      神田明神(かんだみょうじん)

中央区】 福徳神社(ふくとくじんじゃ)
      築地本願寺(つきじほんがんじ)

【豊島区】 駒込妙義神社(こまごめみょうぎじんじゃ)

練馬区】 石神井氷川神社(しゃくじいひかわじんじゃ)

【文京区】 湯島天満宮/湯島天神(ゆしまてんまんぐう)

【港区】  願生寺(がんしょうじ)
      白金氷川神社(しろかねひかわじんじや )
      乃木神社(のぎじんじゃ)
      宝珠院(ほうしゅいん)

【目黒区】 自由が丘熊野神社(じゆうがおかくまのじんじゃ)
      上目黒氷川神社(かみめぐろひかわじんじゃ)

花手水巡りも楽しそう。