歩・探・見・感

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琺瑯住所プレート 向ヶ岡弥生町?

本郷から言問通りに入り、暗闇坂を歩いていくと、途中「竹下夢二美術館」があった。
この道を歩くのは、初めてかもしもしれない。
というのも「竹下夢二美術館」を見た記憶がなかったからである。
文京区の道は、路地という路地まで歩き尽くした思うくらい歩いたと思っていたが、まだまだ歩いていない道があったようである。
ということは、歩き尽くしたと思っているだけで、それは自分の勝手な思い込みなのであろう。
単に覚えていない、忘れているだけかもしれないが・・・。

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「竹下夢二美術館」には入館することなく、通り過ぎた。

さて、ここから、本格的に「向ヶ岡弥生町」の話題となる。

この近くにタイトルである「向ヶ岡弥生町」の旧町名案内板があった。

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タイトルが「向ヶ岡弥生町?」と「?」が付いているのは、琺瑯住所プレートに向ヶ岡弥生町の記載がないからである。
ネットで調べた限りでは、このような番地がついていたことは確認できなかったが、古地図をみたところ、ひらがなの「いろはにほへと」が付番されていたので、このような地番があったことが想定できる。
ひらがなが付番されている表札は、旧「駒込西片町」でも見たことがあるが、琺瑯住所プレートでこのようなものは、他で見かけたことがない。

発見日  2021年10月23日

発見場所 東京都文京区弥生2丁目

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「No 3 と二十八號」
最初見た時は、住所だとは思わなかった。
なんだかさっぱり見当もつかなかったのである。
今でもよくわからないが、古地図を見ると数字とひらがながあるので、現代版だと
「3丁目 と番地 28号」にでもなるのであろうか?

上部と下部のくぎで打たれた周辺が劣化している。他の琺瑯製のものもこのようになっていることが多い。

「号」の旧字体「號」が使用されており、いかにも年代物の感じがする。

門は新しそうだったので、古い門にあったものを廃棄せずに新しい門に設置し直してくれたのかもしれない。
残していただきありがとうございます。

とにかく貴重なものを発見できた。

現在でもひらがなを町名の一部または全部で使用しているのは自治体は、千葉県旭市、千葉県内の八街(やちまた)市、匝瑳(そうさ)市、香取市山武市、東庄(とうのしょう)町、および金沢市をはじめとする石川県内の大半の市町などにあるそうだ。

石川県能美市寺井町では、地名データをみると「い、は、ほ、と、ち、ぬ、る、を、わ、か、よ、た、れ、や、ま」と、ひらがなの「いろは」が飛び飛びに使われている一方で、「イ、ロ、ハ、二、ホ、へ、ト、リ、ワ、カ、ヨ、タ、レ、ソ、ツ、ナ、ラ、ム、ウ、ク」といったカタカナの「イロハ」も使われ、一部は同音のものとなっているようだ。
これは非常にややっこしい。

沿革
1872年(明治 5年)
向ヶ岡弥生町は水戸藩駒込邸(中屋敷)の範囲に名付けられた。現在は浅野地区(工学部等)と弥生地区(農学部地震研究所等)、住宅地になっている。

1878年(明治11)年11月2日
東京府本郷区に所属。

1884(明治17)年3月
縄文式土器とは異なった土器が発見される。

1894(明治27)年
坪井五郎博士によって発見地名を採り、「弥生式土器」と名付けられた。
遺跡は当初、「向ヶ岡弥生町貝塚」と呼ばれていたが、昭和10年代から「弥生町貝塚」の呼称が一般化している。

1889年(明治22)年5月1日
東京府東京市本郷区に所属。

1943年(昭和18)年7月1日
東京都本郷区に所属。

1947年(昭和22)年3月15日
東京都文京区に所属。

1965年(昭和40年)4月1日
住居表示実施。森川町の一部を編入言問通りの南側全域を弥生二丁目、北側は東京大学農学部敷地のみのを弥生一丁目としその他の北部地域は根津一丁目に編入された。

これに対して、根津一丁目に編入された向ヶ岡弥生町の区域に居住していた詩人のサトウハチローや法学者の団藤重光、宮内庁侍医の西川義方らが「弥生土器発掘の地から弥生の名が奪われる」と反対運動を展開した。

1967年(昭和42年)
旧根津須賀町の一部とともに弥生二丁目に再編入された。この区域は現在の弥生二丁目13-20番に当たる。

現在の町名から「向ヶ岡」は消えてしまったが、町会名と文京区弥生に隣接する「文京区向丘」に残っている。

町名の由来
弥生時代」の由来となった町名の「弥生」は、德川齊昭が表御殿の庭園に建立した「向岡記」碑の碑文「文政十萬梨一登勢止移布年能夜余秘能十日(ぶんせいとをまりひととせといふとしのやよひのとをか)」(訳 文政 11 年三月十日)の「夜余秘」(やよひ)=「弥生」からとられた。「向ヶ岡」は「忍ヶ岡」(上野の岡)の「向こう側にある岡」という地域名からとられた。

この石碑は自然石の風雅なものだが、酸性雨で上部に刻まれた「向岡記」の文字すらも消えかかり、草書体の歌や詞書もほとんど読めなくなったらしいが、2008年(平成20年)、東京大学百三十周年記念「知のプロムナード」の学内整備に伴い、碑の保存処理、破損部分の修復を施し、東京大学浅野地区情報基盤センターに移築されたそうだ。

参照

Wikipedia

江戸町巡り

さわらびYの歴史・民俗・考古探索ノート

Yahoo!不動産おうちマガジン 

向ヶ岡弥生町 News Letter 
VOL.1 2012 年 6 月 1 日発行
発行 原 祐一(東京大学埋蔵文化財調査室)