目撃情報のある谷中天王寺町のブルーの電力プレートを何回か探索したが、見つからない(消滅したのか?)ので、谷中天王寺町の旧町名の代表選手として「防火用水」を取り上げたい。
発見日 2021年10月23日
発見場所 東京都台東区谷中7丁目
これが今回、代表選手に選出された「防火用水」である。
防火用水、天王寺町會とも文字が右から記載されており、「町会」の「会」も「會」と旧字体が使用されているので、谷中天王寺町時代のものと考えられる。
街歩きをしているとよく見かけるが、上に植木鉢が置かれており、防火用水としての役割は終わっている。
この防火用水は当然町会の所有物なのだろう。
だとするとこの植木鉢は町会のものなのか?
見ていると、どうでもいいことが気になってきた。
ちなみに天王寺町会の町会名は現在も継続しているようだ。
この防火用水がこのように残されているのは意味があることなのかもしれない。
こんな重いもの廃棄するのも大変だし、邪魔になっていそうもないので、旧町名の生き残りとして、また、悲惨な歴史があったことは承知しているが、戦争遺産として、このまま残り続けてほしい。
大津市歴史博物館の「学芸員ノートから」に「第35回 大津百町に残る防火水槽」というのがあり、防火用水についての説明があったので、引用させていただいた。
町歩きをしていると家の軒下にコンクリートの四角い水槽のようなものを目にすることがあります。
実は戦争を物語る貴重な遺物なのです。
太平洋戦争時、日本には木造の家が多くあったので、アメリカ軍は焼夷弾(しょういだん)を落として焼き払おうとしました。
このような空襲に備えて、水を溜めておいた容器がこの水槽なのです。
防火水槽、防火用水、防空用水などと呼ばれています
防空に関するマニュアルである『時局防空必携』(昭和16年12月10日発行)には、家庭のふだんの準備として水を「普通の家では、一戸当り約百リットル(約五斗五升)以上。
また、設置場所についても「家の構造や待避所の位置等を考えて、何処に焼夷弾が落ちてもすぐ間に合う所に配置する」としています。
防火水槽はこのような戦争を今に伝える貴重な遺物であるにもかかわらず、あまり省みられることなく、知らず知らずのうちに消滅しつつあるのが現状です。
防火水槽の容量は、調べてみると防火水槽の上面まで満水にして100から150リットルのものが多いようです。
これは、『時局防空必携』に規定された100リットルを基準にして防火水槽が造られたためでしょう。
谷中天王寺町の沿革
1891(明治24)年
谷中霊園、谷中村字天王寺前、字銀杏横町、字芋坂を合併し、谷中天王寺町が起立。
1943(昭和18)年7月1日
東京都下谷区に所属。
1947(昭和22)年3月15日
東京都台東区に所属。
1967(昭和42)年1月1日
住居表示の実施により、谷中七丁目、上野桜木二丁目の一部に編入された。
旧町名由来案内