歩・探・見・感

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ノスタルジック、レトロ、ディープそしてマイナーな世界へようこそ

木製仁丹町名表示板 京都府京都市

仁丹の町名表示板を調査研究されている「京都仁丹樂會」さんによると、木製の仁丹町名表示板は大正元年9月頃から設置されていたらしい。

琺瑯看板探検隊」さんの資料では、下記9枚が現存していることになっているが、最新の情報が2016.5.28と古いので、消滅してしまっているものもあるかもしれない。

1.上京区椹木町通油小路東入東魚屋町
2.上京区寺町通二条上る
3.上京区室町通上御霊前下ル上柳原町
4.上京区五辻通大宮東入下ル慈眼庵町
5.上京区新麩屋町通仁王門下る大菊町
6.下京区新町通花屋町東若松町
7.下京区佛光寺通烏丸東入下ル匂天神町
8.下京区下立売七本松西入西東町
9.下京区綾小路通新町西へ上新釜座

今回の訪問では事前調査不足で、すべてを確認することはできなかったが、一部(1,4,9)確認できたので、紹介しよう。

 

発見日はすべて2022年1月29日である。 

 

上京区椹木町通油小路東入 東魚屋町

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1829年(文政12年)創業の京都最古の豆腐店に設置されている。

ちなみに、京都で二番目に古い豆腐店は「賀茂とうふ 近喜」で、1834年天保5年)創業だそうだ。

上京区と中京区の境界でもある大通り・丸太町通の1本北側を走る椹木町通(さわらぎまちどおり)は烏丸通から千本通まで約1.4kmほどの路だが、通りには伝統的な町家建築が多く残されていると共に、洛中で唯一残る酒蔵「佐々木酒造」の土蔵街も見られる。

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椹木(サワラ)はヒノキ科の木で、見た目はヒノキに似ているものの、柔らかい材質のために建材として柱など強度が求められる部分には使用さず、柄杓や桶、或いは障子の格子といった建具や生活用品に使われる木材。
この通りにはその椹木を取り扱う商人が多く店を構えていたそうだ。

椹木町通の西側、釜座通り(かまんざどおり)から油小路通り(あぶらのこうじ)にかけての町名が「東魚屋町」といい、この椹木町通の別名も「魚屋町通」と言われていた。
これは、この通り沿いに昭和初期の頃まで十数軒の魚問屋が軒を並べていて、他に八百屋などもあって古くからの市場町であった事にちなんでいる。

 

上京区五辻通大宮東入下ル 慈眼庵町

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やはり思った通りレプリカであった。

「京都仁丹樂會」さんの記事によると、設置されていた町家の隣家が取り壊しとなり、損傷を防ぐため取り外され、劣化と盗難の危険性あるので、レプリカを作成し、2017年8月に設置したとのことであった。
本物はアクリルケースに収めて行事の際に出すよう町内持ち回りで保存されるということになったそうだ。

その記事に「誰もレプリカに気付かず皆さん本物と思っております」とあったが、素人には欺けるだろうが、マニアには欺けないだろう。
やはり、偽物ではなく本物を拝みたいものだ。

角川日本地名大辞典より

(近世~近代)江戸期~現在の町名。五辻通大宮東入下ルの町。町名は慈眼庵の跡地に天正18年以降町が形成されたことによる(府地誌)。慈眼庵(寺)は曹洞宗の寺院で,天正16年,当地に創建(雍州府志),現在は上京(かみぎよう)区七番町にある。寛永14年洛中絵図に「ぢけん寺ノづし」とあり,江戸期には辻子名が付けられ,俗に「じげながのづし」と呼ばれた(宝暦町鑑)。江戸期は上西陣組の芝大宮八町組。明治2年の町組改正から上京5番組,明治5年第4区と改称,同25年第4学区に編成。明治12年上京区慈眼庵町,同22年京都市上京区慈眼庵町となり現在に至る。

 

下京区綾小路通新町西ヘ上 新釜座

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これは「膏薬辻子」(こうやくのずし)にある。

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膏薬辻子とは、四条通から中ほどで折れ曲がり綾小路通までを走るこの細い道の名称である。また、膏薬辻子を挟む地域が、明治2年(1869年)に新釜座町と命名されるまでは、地域の名称としても用いられた。
この地域は、皇后を何代も排出した大納言藤原公任(ふじわらのきんとう)の邸宅である四条宮のあった場所である。
そして、この地域において、踊念仏で知られ、後に西光寺(現在の六波羅蜜寺)を創建した空也上人が天慶元年(938年)、この地に道場を設けて念仏修行を始めた。

個性的な名前の由来は、こんな言い伝えにあるそうだ。938 年、高僧・空也(くうや・こうや)上人がこの地に道場を設けて念仏修行をしました。940年に天慶の乱で戦死した平将門の首が京都でさらされて以降、天変地異が相次ぎ、平将門の怨念の仕業とされたために、全国に霊を鎮めるための首塚が築かれる。京都でも道場の一角に塚(現在の京都神田明神)を建て供養したことから「空也供養の道場」と呼ばれるように。「空也供養」が訛って「膏薬(こうやく)」、細い道を意味する「辻子(ずし)」とあわさり、この地が「膏薬辻子」と呼ばれるようになったとされている。

 

京都神田明神

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東京神田の神田明神と違って、こじんまりとしているが、京都にも神田明神があった。

「京都神田明神」  
御祭神 平将門命・大己貴命少彦名命
平将門公は桓武天皇五代の後裔で、東国において武士の先駆者「兵(つわもの)」として名を馳せた人物です。この地は天慶の乱に敗れた将門公の首級が京都に運ばれ晒されたと伝わる場所です。古来よりこの地に小祠が祀られておりましたが、
このたび将門公を祀る東京の神田明神よりご祭神をお迎えしました。
皇居のほとり、千代田区大手町の「将門塚」は、京の都で晒された首級が胴体を求めて関東に飛び、力尽きて落ちた場所として、今なお都心の霊所として、将門公の「強きを挫き、弱きを助くる」精神を慕い、参拝がたえません。

東京に鎮座する神田明神は、大己貴命少彦名命とともに、平将門命を祀る神社です。
天平二年(七三〇)に大手町・将門塚周辺に創建され、その後、延慶二年(一三〇九)に将門公が合祀されました。
元和二年(一六一六)に江戸幕府により江戸城(現在の皇居)から見て表鬼門守護の地へ遷座しました。江戸幕府より「江戸総鎮守」の称号をいただき、徳川将軍をはじめ江戸の町人たちにより崇敬されてまいりました。
神田明神の大祭「神田祭」は「天下祭」「御用祭」とも称され、江戸城内において徳川将軍が上覧しました。明治七年(一八七四)には、明治天皇も陛下も親しくご参拝されました。
現在は「祇園祭」「天神祭」とともに日本三大祭の一つに数えられ、二年に一度、五月中旬に行われ、二百基に及ぶ神輿が賑やかに行われております。

尚、この土地・建物は、神田神社責任役員氏子総代・遠藤達蔵氏のご遺志を継ぎ、娘の平野徳子様により寄贈されたものです。
平成三十年四月吉日
〒一〇一-〇〇二一 東京都千代田区外神田1-16-2
神田神社社務所 
電 話 〇三-三二五四-〇七五三 
FAX 〇三-三二五五-八八七五 

 

膏薬辻子式目の張り紙が貼ってあった。

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釜座町・町内会の規則のようで、基本姿勢、日常の暮らし(防火・防犯、辻子の保全、店舗について)、まちなみの保全(建物の外観、土地・家屋の売買・賃貸)の各項目について詳しく書いてある。
江戸時代に町内のルールを定めた「町式目」に習い、作成されたようだ。

残念なのは、野ざらしのためか、しわが寄ってしまっていること。
掲示板に張ればいいのにと思ったが、掲示板を置くスペースがなかったのだろう。