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東京の木製仁丹町名表示板について(6)

今回が「東京の木製仁丹町名表示板について」シリーズ最終回である。
 
以前は、木製町名表示板の上に少し錆びた「火災予防推進モデル地区」の金属製の看板が張られていた。

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この時は本郷區の文字上半分と、仁丹の商標が見えていた。

 

それが昨年(2021年)のいつ頃だかわからないが、「火災予防推進モデル地区」の金属の看板が外された。

その結果、全身があらわになった。

「キャー!見ないでぇ!」とはならない。

全身、ではない全体を見させてくれてありがたい。

 

古い建物の戸袋の左端に設置されている。

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元からここにあったのかわからない。
最初からこんな目立たないところにあったら、町名表示板の役割を果たしていないと思う。
この建物のメイン道路側にも設置スペースはあり、そちらの方が良かったのではないかと思ったが、今の場所だから、逆に目立たず、今まで残っているとも考えられる。
以前、「東京の木製仁丹町名表示板について(3)」で紹介した「芝區豊岡町」も建物の前面ではなく、横に設置されていたので、残っているのかもしれない。

戸板と同じような木なので、修理のため、上に張り付けたようにも見える。

興味がない人にはただの板切れにしか見えないだろう。

更にここに書かれている文字を気にするのは自分のようなマニアくらいしかいないだろう。

この建物は、和瓦葺き切妻屋根、出し桁造り、下見板張りとかなり古い建物だとお見受けする。

 

この周辺には古い建物がいくつか現存しているので、戦災の被害がどうだったのか気になったので、近くにある建物を調べてみた。

根津神社
関東大震災東京大空襲でも破壊されることなく、全て今も残っていて、根津神社は”強運の神社”と言われている。
しかし、実際には、本殿は1945年1月29日の米軍による空襲で焼失したそうだ。
空襲のあった日、街の皆で夜通し神社の消火活動をしたそうだが、夜半過ぎに北風が突如南風へと変わり、千駄木方面へと炎が燃え広がってしまったらしい。

根津教会
1919(大正8)年に献堂された礼拝堂。関東大震災東京大空襲の被害を受けず、現在も変わらない姿だ。

「東京35区 区分地図帖 戦災焼失区域表示」を見ると、この辺りは、非焼失地域になっていた。
でも、根津神社のように焼失したところもあったようだ。

町名表示板が設置されている建物は、根津神社の東側にあったので、運よく焼失を免れたと思われる。
ネットで調べた限りでは、情報がないが、この建物は戦前からあることは間違いないだろう。
町名表示板が設置されているということは、大正時代からあった可能性もある。

 

全体を写したもの

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木目に沿って亀裂が入っているところがある。
右上部の一部が欠けてしまっている。
白いペンキは、ほとんど落ちてしまっている。
金属製の看板が張られていなかったら、町名、番地の黒い色も区名のように色が落ちてしまっていたかもしれない。
金属製の看板は戦後に設置されたものと思われるが、何故この上に設置したのだろうか?
 
横から見たもの

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上部と下部が反っている。
厚さは1cmくらいあるだろうか。
 
京都市のものと比較してみよう。
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根津須賀町のほうが劣化が激しいが、京都市のものも下部は劣化しており、木目が見えている。

木の種類は同じなのだろうか?
京都市のものの方が、節もなくいい木のような感じがする。

 

次に古い写真の東京市のものと比較してみよう。

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上から区名、町名、丁目、番地、ロゴの順になっている。
町名は、尾張町が3文字、根津須賀町が5文字なので、文字の大きさは、尾張町の方が大きい。
尾張町は丁目、番地があるので2行書き、根津須賀町は番地だけなので1行だ。

 
次に区名、町名、丁目、番地、ロゴをひとつひとつ確認していこう。
 
上部に区名である「本郷區」の文字が右から書かれている

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詳細に観察してみよう。
赤い?色は落ちてしまっているが、文字が浮き出ている。
よく見ると縦の木目に大小の亀裂が入っていることがわかる。
このままだと3分割してしまいそうな感じだ。
釘跡と思われるものが少なくとも6個と穴が複数空いている。
右側には釘は残っておらず、中央に1本、左側に曲がった釘が1本打たれている。
釘をこんなに打つ必要があったのか?
 
 
その下に太い黒文字で町名「根津須賀町」と番地「四番地」が書かれている。

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白いペンキが薄く残っている。
「根」の字の色が一番色落ちがひどい。
「津」のさんずいの色が落ちている。
「須」のさんづくりがはっきりしない。
「賀」のカも薄い。
と文字の左側が全体的に色落ちしている。
 
 
一番重要な仁丹のロゴだが、下部にうっすらと浮き出ている。

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ネジ3本と頭がない釘のようなものが打たれている。
ネジは後でつけられたものだろう。
 
更に拡大したもの

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仁丹のロゴは真ん中だけ模様があり、両側は模様が消えてしまっているが、仁丹の文字が浮き出ているのがわかる。
顔辺りに木の節があったり、中央の上から下に細い複数の亀裂があったりして、顔がはっきりしないのが残念だ。

「この仁丹のロゴが目に入らぬか」と言っても、見えない人には見えないかもしれないが、この文字を仁丹と見えないなら、何と見えるのだと、問いたい。
 
ここまで、証拠が揃っているこの木製の町名表示板、自分は仁丹のものだと確信しているが、自分だけでは、頼りない。
 
この木製の町名表示板について、調べた限りでは、下記の方がブログで取り上げていた。
 2020/07/06
「東京あるけあるけ」さんが「東京都内で見かけた、仁丹町名表示板らしきもの」
2021/12/31
「東京まちの記憶 昭和レトロ研究会」さんが「仁丹木製看板の考察  2021年」
 
インスタやツイッターでもこの写真は載っていたが、仁丹の町名表示板と紹介していたものはなかったようだ。
 
この町名表示板の存在は以前から知られており、写真が紹介されているので、本物であれば「京都仁丹樂會」さんが気が付いて、その情報をホームページに掲載されていてもいいはずだが、掲載されていない。
更に、既にどなたか問い合わせしていると思われるのだが、「京都仁丹樂會」さんにそのような情報が見つからない。
ということは、仁丹の町名表示板ではないのか?
 
仁丹の町名表示板かどうか、「京都仁丹樂會」さんに確認していただくしかないだろうと思い、「京都仁丹樂會」さんのホームページにアクセスして、問い合わせしようとしたが、肝心なこの時に、何故だかアクセスできなくなってしまった。
PCでIE、Edge、Google Chromeそれぞれでアクセスを試してみたが駄目で、スマホでもできない。
一昨日くらいまでアクセスできていたと思うのだが、アクセス拒否でもされているのか?
アクセスできるようになったら、問い合わせしてみよう。
 
 
最後になるが、平成になって京都で仁丹の町名表示板が復活したように、時代が変わった令和の東京に仁丹の町名表示板が復活してくれれば、とてもうれしいことだと思うが、誰か企画する方はいないだろうか?