あれ、今回は木製仁丹町名表示板を紹介するはずではなかったのか?
期待している読者を裏切るのか?
いや、誰も期待などしていないだろう。
その証拠にあまり使えない、はてなブログのアクセス解析(無料で使わせてもらっているので、文句は言えないが、改善してほしい)だが、見てみると、パーセントしかわからないが、このシリーズのアクセスはほとんどなかった。
別にアクセスを期待して記事を書いているつもりはないが、アクセスがないよりあったほうが嬉しいというのが本心である。
ということで、
予定では、今回、仁丹と思われる木製町名表示板を紹介するつもりだったが、その前に旧東京15区時代の地域に戦前から現存している貴重な旧町名の痕跡の一部をMYコレクションより紹介したい。
これから紹介するのは、東京大空襲を乗り越え、昭和、平成、令和と少なくとも77年以上、その地に残っている貴重な痕跡たちだ。
①琺瑯町名看板
これは旧町名マニア及び琺瑯看板マニアだったら知らない人はいないだろう。いたら、その人はモグリだ。
「モグリ」という単語はよく見かけるが、念のため、意味を調べてみた。
漢字で書くと「潜り」だ。
㋐「許可を受けないで、こっそりものごとをすることやその人」
㋑「知識・技術が不十分なのに、仲間であるような顔をしている人」
㋒「ある集団の一員とは認められないことや人」
㋓「ある集団の中に勝手に入り込み、その一員であるかのようなふりをしている人」
㋑の意味もあるのか?
自分は知識不十分すぎるのでモグリの仲間だということが判明した。
ガクッ。
早くモグリから卒業すべく、勉強しなければと気づかされた単語だった。
しかし、勉強したつもりでも記憶に残らない、今日この頃である。
さて本題に戻ろう。
戦前から現存している町名看板は今のところ確認されているのは2枚である。
A.芝區豊岡町
発見日 2020年7月14日
発見場所 東京都港区三田5丁目
これは「京都仁丹樂會」さんの全国津々浦々の考証(その7) ~東京で仁丹発見!!!⑤~でも紹介されていた。
「ず必に庭家御」
「素の味」
って何だ?
と思った人はいないだろう。
言わずと知れた「味の素」が広告主の町名看板だ。
味の素株式会社のホームページに下記の記載があった。
お椀マークの商標は、吸い物といえば「味の素®」を連想するように、お椀の形を採用し、その中に「味の素®」の文字を配した商標を考案し、1912(明治45)年2月27日第50836号として登録されました。
その後、お椀の形状が数回改められたり、お椀の蓋に「最新調味料」「世界の調味料」など書かれることもありましたが、1958(昭和33)年以降は書かなくなりました。
B.まだ訪問していない、従って画像がないが、港区赤坂2丁目にある居酒屋”丸重”に琺瑯町名看板「麻布區谷町」がある。
C.以前は「本郷區根津片町」があったようだが、消滅したと思われる。
この広告主も「味の素」だった。
この町名看板は、どこにいってしまったのだろう?
何回か付近を探索したことがあるが見つからなかった。
ここで見てきたように戦前から現存している琺瑯町名看板はわずか2枚しかない。
東京に仁丹の琺瑯町名看板が現存していなくても何の不思議もない。
東京23区で発見された戦後に製作された琺瑯町名看板は、「悠久の思い出」さんのホームページによると約400枚、この中には既に消滅しているものもあり、京都市に戦前から残る仁丹の町名表示板より少ない。
東京23区でも古い木造の家屋は数多く残っているが、京都市に比べて少ないのではないか。
面積を調べてみると京都市は827.83㎢、東京23区は627.573㎢。
えっ?
驚いた。
東京23区の方が狭い。
山手線内が大体京都の市街地と同じくらいの広さらしい。
東京23区のほうが断然広いと思っていた。
そう考えると山手線内、新宿駅から東京駅まで歩くこともあるので、京都市街地なら電車やバスを使わずに歩き回れる面積だということが分かった。
それに京都市街地は東京に比べて坂が少なく、歩きやすそうだ。
②琺瑯住所プレート
戦前から残る琺瑯製の住所プレートのいくつかを紹介しよう。
A.神田區
B.麹町區
C.浅草區
D.下谷區
E.京橋區
F.瀧野川區
G.王子區
数はそれほど多くはないが、戦前の琺瑯町名看板よりは多く残っている。
小さいので、戦時中の金属類回収令の回収対象にならなかったのかもしれない。
それに非戦災地域だったというのが大きな理由ではないかと思う。
③木製の町名表示板
次に仁丹ではないが木製の町名表示板を見てみよう。
戦後のものだと思われるが、木製の町名表示板は非常に少ない。
仁丹の木製町名表示板と思われるもの以外で自分が見たものは、この1枚だけである。
文京區駒込追分町
区名+町名
番地
追分東部町会
大きさは縦約60㎝×横約10㎝
追分東部町会
文京区町会連合会創立60周年記念誌「六十年のあゆみ」(2014年11月発行)掲載内容
当町会の区域は、東大農学部の塀に沿って東に折れ、本郷通りに平行して南北に連なっている。南端は朱殿門のある西教寺、続いて文豪森鴎外の小説「青年」に書かれている願行寺の石塀が並んでいる。このあたりは、震災、戦災をまぬがれ、東大の銀杏並木がまっすぐにのびる閑静な地域である。さらにその先は、日医大の奥に夏目漱石の邸宅があったことから、この辺の商店街を「ぼっちゃん商店街」と云っている。
昭和20年の大空襲のあと、町が復活し、60余年を経て、住む人も変わり、建っていた家々も変貌してはいるものの、古い町筋と人の和は変わることなく継承されている。
現在、会員相互の親睦を図る目的で、ラジオ体操、バスハイク、御祭礼、歳末の警戒などを行っている。また、各募金活動への協力、婦人会活動のほか、地区対策委員による青少年の育成に協力している。平成23、24年に行われた12町会による大運動会では2年連続で優勝している。大変まとまりのあることを誇りとして、組織作りに励んでいる。
さて、次回こそ木製仁丹町名表示板と思われるものを紹介したい。
少し間隔があくと思うが、期待して、待っていていただきたい。
だから、冒頭でも言ったが、誰も期待していないと言っているだろう。
それに、既に紹介した内容だし、期待するほどの内容はないかもしれない。
To be continued.