歩・探・見・感

歩・探・見・感

ノスタルジック、レトロ、ディープそしてマイナーな世界へようこそ

琺瑯町名看板 北多摩郡狛江町小足立689

この日は調布市琺瑯町名看板「調布市下石原」とこの琺瑯町名看板の探索がメインだった。

たぶん狛江市は初上陸だ。

 

発見日  2022年3月12日

発見場所 東京都狛江市西野川2丁目

 

f:id:citywalk2020:20220313112951j:plain

北多摩郡時代の貴重な町名看板だ。
北多摩郡のものはほとんど残っていないだろう。
自分で調べた限りでは、北多摩郡久留米町(現東久留米市)のものくらいだ。
南多摩郡西多摩郡のものもほとんど残っていない。

あれっ?東多摩郡というのはあったのだろうか?
調べてみたらあった。
現在の東京都中野区・杉並区にあたる部分だった。

 

狛江市の歴史

1889年(明治22年
町村制の施行により、駒井村、和泉村、猪方村、岩戸村、小足立村、覚東村が合併して狛江村となる。

1893年明治26年)4月1日
狛江村が属していた北多摩郡が神奈川県から東京府編入される。

1952年 (昭和27年)11月10日
町制施行、狛江町となる。

1970年(昭和45年)10月1日
市制施行、狛江市となる。

 

小足立の由来(狛江市立狛江第五小学校だより 狛江市ぶらり歴史探索② ~小足立~)

1935年に刊行された「狛江村誌」には、古代の豪族であった強頸氏(こわくび)の居館がかつてこの地にあり、強館(こわだち)と呼ばれておりそこから小足立の地名が生まれたと書かれています。強頸氏は足立郡の大宮から移住してきたとの記録もあり、足立の名が使われたのではないかと想像しています。 
一方、1830年に完成した『新編武蔵國風土記稿』によると「郷庄ノ唱ハツタヘス」とあり、村名の由来は伝わっていないともあります。年代の古い方の資料に由来はわからないとあるので疑問は残りますが、古代の豪族と聞くとそちらの説を採用したくなります。 
忍者の里?小足立   また、1645 年頃書かれた「武蔵田園簿」によると「伊賀衆 知行 小足立村」とあります。つまり、伊賀から来た人々が小足立村を治めていたということです。江戸時代の徳川政権は、諸藩の動きを常に監視するために間諜(かんちょう)を放っていました。間諜には伊賀忍者が当てられていて、皇居の半蔵門は伊賀者忍者服部半蔵の屋敷があったことでも有名です。 
幕府の招きに応じて集団で移住してきた伊賀の人々は小足立村で暮らしながら江戸城の警備や他藩の間諜として活躍したのではないかと思われます。当時の資料には和泉村など狛江の五つの村の知行(治めていた人)の名前は残っているのですが、小足立村だけは全く史料がないことも、秘密裏に行動する忍者らしいエピソードです。 

 

住居表示のあゆみ (狛江市ホームページより)

第2期として、旧小足立、旧覚東地域を実施した。旧小足立、旧覚東地域は、相互に町が入り組んでいて地番に連線性がなく、民間デベロッパーによる大規模な開発も行われたために、地番の欠如が多く見受けられた。
 審議会の、都道114号線を境に町名を新しくしようとする素案を岩戸同様、市民の意見を聞く会に諮ったところ、今まで築いてきた住民の連帯感を分断するものだと反対の声があったが、小足立町会、覚東町会と何回も話し合いの結果、町の境界は素案どおり決定した。
 町名を決めるに際しては、住居表示実施地域内の町会、自治会の代表者によって、「町名策定委員会」を組織し、この委員会で四つの町名案をつくり、地域住民を対象にアンケート調査を行い、決めることとした。
 四つの町名案は、「小覚町」「緑町」「野川」「富士見町」であった。アンケート調査の対象4,500のうち、回収数約2,100、回収率47パーセントのうち約75パーセントが「野川」を選んだ。この結果、都道を境に、西側を「西野川」、東側を「東野川」で決定をした。

自治体主導ではなく、住民のアンケートで決まったのだから、いいのだろうけど、「小覚町」以外ありふれた町名過ぎてつまらない。

 

小足立町会

f:id:citywalk2020:20220313150631j:plain

 

八幡神社参道奉納記念碑

f:id:citywalk2020:20220313150732j:plain

八幡神社は、品陀和気大神を祭神とする小足立の鎮守です。
その創建は明らかではないが、元禄十年(1697)の小足立村検地帳に「八幡宮」と見え、江戸時代後期の地誌「新編武蔵風土記稿」にも「八幡社」として記録されており、江戸時代には創建されていたことが知られます。
明治八年(1875)頃、地租改正の時に作成された小足立村絵図には、八幡神社の参道としての機能を持つ形態で描かれており、江戸時代の創建以来、参道として使用されてきたことがうかがえます。