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国宝 正福寺地蔵堂(千体地蔵堂)他 東京都東村山市

東村山市文化財を調べていたところ、なんと!国宝があることが分かった。

東宮御所迎賓館赤坂離宮)が2009年新たに国宝に指定される前までは、長らく東京都唯一の国宝建造物だったのが、今回紹介する正福寺地蔵堂だ。

関東に存在する国宝建造物一覧

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全国では奈良県が64で1位、京都府が51で2位で、圧倒的だ。
東京都が少ないのは、関東大震災東京大空襲でほとんど焼失してしまったからだろうか?

 

撮影日  2022年3月28、31日

撮影場所 東村山市野口町4丁目6番地1

 

道標

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地図の一部

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正福寺

創建年代については不詳であるが、鎌倉時代中期に鎌倉の建長寺僧石渓心月の開山により創建されたと伝えられ、開基については執権北条時頼とする説と北条時宗とする説がある。

 

正福寺山門

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東村山市指定有形文化財(建築物) 

正福寺山門 

指定 平成17年4月20日 

金剛山正福寺は臨済宗の寺院で、鎌倉の建長寺の末寺です。 

その仏殿である地蔵堂は、応永14年(1407)建立の典型的な禅宗様建築であり、東京都唯一の国宝建造物です(昭和3年・1928年指定)。 

鎌倉幕府執権であった北条時宗か、またはその父である時頼によって開基され、勧請開山は中国南宋の石渓心月仏海(しゃけいしんげつぶっかい)であると言い伝えられていますが、 確たる史料は現存していません。 

正福寺山門は、昭和48年(1973)に行われた解体修理の際発見された、親柱?の墨書銘 「元禄十四辛巳年無神月吉祥日建□(者)也、 此時住寺□月山(以下略)」 から、元禄14年(1701)、月山の代の建立であることが判明しました。 

山門の建築形式は、四脚門で切妻、昭和48年の修理の際に、茅葺から茅葺形銅板葺に改修されました。 建築様式は禅宗様で、その規模は、桁行十尺(3.03m)、梁行十尺で、高さも柱底部から桁下端までで十尺となっています。 屋根は、かつては化粧裏板の上に登り、梁を架けて茅葺としていたものと考えられます。 また、彩色は柱、桁、冠木、束等に朱の痕跡が見られ、もともとは全体が朱で塗装されていたものとみられます。 

江戸時代の伽藍の遺構を示す、貴重な禅宗様建築物です。 

東村山市教育委員会

 

國寶千體体地蔵堂の石碑

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國寶という旧字体の文字が、石碑自体をものすごく存在感のあるように感じさせる。
このようなものを「オーラ」というのだろうか。

 

これが国宝だ!

日本一地味な国宝建造物だと言われているらしい。
確かに地味だ。

だが、鎌倉の円覚寺舎利殿と共に禅宗様建築の代表的遺構である。

正福寺地蔵堂(千体地蔵堂

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先入観はいけないが、曇っていたからか余計に地味に見える。

東村山市民にも 周辺エリアの方々にも《その認知度が低いと感じる》と地元情報サイトが嘆いていたらしい。

 

「桟唐戸(さんからど)」

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縦横に框 (かまち) を組み、間に薄い板を入れた扉

 

「波形欄間」

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波形の縦連子を入れた欄間

 

「花頭窓(火灯窓)(かとうまど)」

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枠を火炎形あるいは、花形に造った特殊な窓

上部

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禅宗様の特徴的なものとして以下のようなものがあるらしいが、どれがどこを指すのかよくわからない。

・屋根の下に美しく放射状に配置された木材の「扇垂木」。
・海老のように湾曲した形の虹梁の事で、側柱や本柱など高低差のあるところに用いられる「海老虹梁」。
・組み物を、柱の上だけでなく柱間にも置いて密に配する形式である「詰組」。
・虹梁などと上の梁を支える役割をしている中央に膨らみのある瓶の形の束である「太瓶束」。
・凹型の輪郭を持つ装飾である「繰り型」。

写真だが、よくよく見ると

 

右横から見たところ

 

裏から見たところ

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花とのコラボ

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全体的に暗くなってしまった。
曇り空だったので、あまりきれいに撮れなかった。
カメラの腕のせいだろうっだって?
そう言われると、言い返せない。
もう少しスマホのカメラテクニックを学ばねば。

 

東村山ふるさと歴史館に正福寺地蔵堂の模型があった。

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正福寺千体地蔵堂と堂内

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この正福寺千体地蔵堂は、都内唯一の国宝建造物です。地蔵堂本尊及び小地蔵尊像は、市指定文化財となっています。 

千体地蔵堂は、鎌倉円覚寺舍利殿とともに唐様建築を代表する建物です。波形欄間(なみがたらんま)、花頭窓(かとうまど)、 屋根の反りなどに特徴があります。昭和八年~九年に屋根の茅葺きをこけら葺きに改修した際に発見された墨書銘により、 室町時代の応永14年(1407)の建立とわかりました。寺の縁起では鎌倉幕府の執権北条時宗が鷹狩りの際病気になり、 夢の中で地蔵菩薩からもらった丸薬で病が治ったことから地蔵堂を建立したといわれています。 

地蔵堂本尊は、昭和48年の修理のとき文化八年(1811)、江戸神田須田町万屋市兵衛弟子善兵衛と書かれた墨書銘が発見されました。 

また小地蔵尊像については、江戸時代の地蔵信仰が盛んなとき、多くの小さな地蔵尊の木造が奉納され、 堂内の天井に近い長押(なげし)に置かれ、千体地蔵堂の名もここに由来します。 祈願する人は、小地蔵尊像を一体借りて、家に持ち帰り、願いが成就すれば別に一体添えて奉納するというもので、 像の裏側には祈願者の名前や年号が入っており、大きさは10cmから30cmほどのもので正徳4年(1714)から享保14年(1729)のものが多く、 奉納者は、地元は勿論、所沢・国分寺・小金井などに及んでいます。 

平成6年(1994)3月 

東村山市教育委員会

 

正福寺千体地蔵堂本尊

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東村山市指定有形文化財 

正福寺千体地蔵堂本尊 

所在地 東村山市野口町四丁目六番地一 

指 定 昭和18年3月31日指定第12号 

地蔵堂の本尊は、木造の地蔵菩薩立像で堂内内陣の須弥壇に安置されています。右手に錫杖、左手に宝珠をもつ延命地蔵菩薩で、 像の高さ127cm、台座部分の高さ88cm、光背の高さ175cm、錫杖の長さ137cm。 

寺に伝わる縁起には古代のものと伝えられ、また一説には、中世のものとも伝えられていますが、 昭和48年の修理の際に発見された墨書銘によって、文化8年(1811)に江戸神田須田町万屋市兵衛の弟子善兵衛の作であることがわかりました。 

平成5年(1993)3月 

東村山市教育委員会

 

正福寺千体地蔵尊

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以前あった案内板には以下のように書かれていたようだ。

東村山市指定有形民俗文化財 正福寺千体小地蔵尊
所在:東村山市野口町4-6-1 指定:昭和47年3月31日指定第11号
正福寺千体地蔵堂と呼ばれるとおり、堂内には、多くの小地蔵尊が奉納されています。一木造り、丸彫りの立像で、高さが10-30cm位のものが大部分です。何か祈願する人は、この像を一体借りて家に持ち帰り、願いが成就すればもう一体添えて奉納したといわれます。
背面に文字のあるものは、約300体で、その年号は、正徳4年(1714)から享保14年(1729)のものが多く、奉納者は東村山を中心に、所沢、国分寺、小金井にまで及んでいます。
平成5年(1993)3月 東村山市教育委員会

 

貞和の板碑(じょうわのいたび)

この中に設置されている。

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ガラスの上から3分割して撮ってみた。

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以前あった案内板には以下のように書かれていたようだ。

東村山市指定有形民俗文化財 貞和の板碑
所在:東村山市野口町4-6-1 指定:昭和44年3月1日
この板碑は都内最大の板碑といわれ、高さ285cm(地上部分247cm)、幅は中央部分で55cmあります。
碑面は釈迦種子に月輪、蓮座を配し、光明真言を刻し、銘は「貞和五年丑己卯月八日、帰源逆修」とあり西暦1349年のものです。
この板碑はかつては前川の橋として使われ、経文橋または念仏橋ともよばれていました。江戸時代からこの橋を動かすと疫病が起きると伝えられ、昭和2年5月に改修のため板碑を撤去したところ付近に赤痢が発生したのでこれを板碑のたたりとし、同年8月に橋畔で法要を営み、板碑をここ正福寺境内に移建したものです。
昭和60年11月 東村山市教育委員会

 

東村山ふるさと歴史館にこの板碑のレプリカがあった。

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野口町ぐるりさんぽみち

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新秋津駅前の観光案内図の裏に正福寺(千体地蔵堂)の絵があった。

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車道側なので、普通は気が付かないだろう。

 

今後も意外なところにある国宝、○○最古、○○最大、○○最長などを探して、紹介していきたいと思っている。