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彩の国 平成の道標「中山道 北本宿」と案内板「北本の歴史」」と現町名「北本宿」 

桶川駅から北本駅に向かって旧中山道を歩いていると本宿交差点付近に「中山道 北本宿」の道標があった。(訪問日 2023年3月9、14日)

『彩の国平成の道標について』
中山道は、その昔人々が行き交い活気ある宿場町として栄えた歴史を持っています。
近年になり、近代化が進み当時の面影はほとんど失われています。
この様なことから、中山道の宿場町を主な題材として歴史とロマンをテーマに各宿場町の道路沿いにある残地等を利用して、平成の道標を設置し、21世紀に向けて宿場の歴史を残すと共に、さらに発展することを目指し設置するものです。
長期的には、地域の魅力ある彩の国平成の道標を、数多く設置しネットワーク化をはかり、中山道を歩く人や、近隣住民の憩の場、触れ合いの場、集いの広場として利用して頂きたいとおもいます。
今回、北本市教育委員会の協力により初めてモデルケースとして設置するものです。
平成6年3月 埼玉県大宮土木事務所

 

えっ!

中山道に北本宿なんてあったっけ?

 

北本の歴史の案内板

中山道と本宿
今日の北本のもととなる街並みがつくられたのは、江戸時代の初期に本宿村が中山道の宿駅として整えられたのが始まりです。現在の本宿付近は、そのころ本鴻巣村と呼ばれていました。その宿駅も中山道が整備された頃には、現在の鴻巣の地に移されました。宿場のあったところは、その後本宿(元宿)村と呼ばれ、これが北本の地名の起こりともなっています。街道沿いに旅館や店はありませんでしたが、本宿村の下茶屋と東間村の三軒茶屋の2ヶ所には立場がおかれていました。人や馬はそこで喉の渇きや旅の疲れをいやし、次の宿場へと向かいました。

 

上記のように中山道に「北本宿」という宿場町があったわけではないので、平成の道標に彫られている「中山道 北本宿」は紛らわしい。

 

しかし、「北本宿」という町名はわずかな範囲に今も現存している。

 

バス停

市制施行後の1973年(昭和48年)から1978年(昭和53年)にかけての地名地番整備に伴い、中央・東間・北本・本宿・中丸に分割されて範囲を狭めてきた。年を追う毎に次第に範囲を狭めており、2016年(平成28年)には緑三・四丁目および下石戸一丁目の成立によりほぼ消滅する。
2017年(平成29年)3月31日現在、33世帯で人口は75人となっている。

今後の地名地番整備により「北本宿」は消滅してしまう可能性があるので、旧町名候補のひとつである。


「北本宿」成立の経緯は、北本デジタルアーカイブズに掲載されていた。

第2章 都市化から安定成長へ

第1節 町制下の行・財政

1 北本町の発足

「北本宿」の地名を考える
「北本宿」の地名は、「宿」の名がついているとおり、交通とかかわる当地の歴史に深く根ざして いる。『角川日本地名大辞典 11埼玉県』には、北本宿についての記載が各所にみられ、その由来は「戦国期に鴻巣宿の宿場があったが、慶長(けいちょう)年間に宿を今の鴻巣に移転し、当地を本(もと)鴻巣村と改称し、元禄(げんろく)年間ごろ本宿村と改称。もとの宿場の意」とあり、また別のページには「明治二十二~現代の大字名。もとは江戸期の本宿村。はじめ中丸村、昭和十八年北本宿村」「明治十二年中丸村大字北本宿となる」ともみえる。一方、現在浦和市(土合(つちあい))の本宿について、「元宿とも書いた。明治十二年北足立郡に(中略)同名の村があったため南元宿村と改称」したとある。
地名語源としての宿=シュク、ジュクは、いうまでもなく宿場、広義には交通・商業機能を併せもった都市的集落を表している。本(元)=モト、ホンは、旧・昔の意味ではなく、「はじめ、基、本来の」の意味である。したがって本宿=モトの宿場とは、初めの宿場、本来の宿場の意となり、鴻巣宿のいわば親宿であったことを示していよう。ところが明治十二年(一八七九)の郡区町村編制以降、浦和の本宿が北足立郡編入され、同郡内に二か所のモトジュクができたため、これを区別して北に位置するため北本宿になったのである。
かって、地名としての北本宿は、「本宿」にこそ歴史的な意味があり、それは中世末から近世初期、当地方における一つの中心であったことを示す唯一の痕跡(こんせき)といえるものなのである。町名変更申請書には、「語呂が長く、呼びにくいので宿をなくした」とあるが、歴史地名継承の立場に立つならば、本宿であるべきだったと思われる。しかし本宿の範囲はあまりにも狭く、本宿以外の住民からみれば、一部をもって全体を表すことにはいささか抵抗があったかもしれず、また時代とともに略称「北本」の方が親しまれるようになっていたとすれば、新町にふさわしい町名だったといえよう。

 

久保特定土地区画整理事業計画図

この計画図で見ると「北本宿」も対象になっているようだが、どうなるのだろうか?

 

案内板に興味深い写真や絵が載っていたので、全部個別に撮ることにした。

 

① 旧中山道昭和35年ころ)

江戸初期の中山道は、現在の中山道筋とは多少異なっていた。写真は北本農協中丸支所付近から鴻巣方面を望んだ旧街道である。

 

高いところから撮ったようだが、どこから撮った写真だろう?

ドローンがあったわけではないし、火の見やぐらからであろうか?

今からは信じられない光景が広がっている。

 

② 三軒茶屋安政6年 1859 ころ)根本山参詣路飛渡里案内より

 江戸時代に関東一円から講中がくるほど参詣人で賑わった根本山(現桐生市)への案内書の抄出である。東間村に設けられていた三軒茶屋(立場)のようすを現したものと思われる。

 

③ 天神社前から三軒茶屋方面を望む(大正11年ころ)

中山道駅付近は、昭和になってもまだ松が道の両側に植えられ並木となっていた。

中山道駅とは?
調べてみたが分からなかったので、北本観光協会の方に聞いてみたが、「中山道という駅はなかった。」という回答であった。
なので、自分の中では中山道駅は書き間違えで、中山道が正しいのではという結論に達した。

 

現在の三軒茶屋通り

 

④ 関根氏宅(昭和25年ころか)

かつて中山道沿いには、このような曲り家が何軒かあった。この家も昭和34年には建てかえられている。この関根氏宅は、江戸時代には人馬の疲れをいやす立場の役を勤めていた。

 

「立場(たてば)」とは、宿場と宿場の間にあって、旅人や人足、駕籠かきなどが休息する場所のこと。

 

⑤ 一里塚(西塚)鴻巣市 平成元年

一里塚とは江戸時代に街道の一里ごとに設けられた小高い塚のことである。 ここにはかつて東塚・西塚 があったが、鉄道敷設時に東塚が取り払われて、現在は、西塚のみが県内中山道筋唯一の塚として残されている。

 

この一里塚については別の記事を書く予定である。