歩・探・見・感

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旧町名 新宿区十二社 PartⅡ

昨日(2022年6月25日)は、群馬県伊勢崎市で40・2度を観測。6月の気温としては、2011年に埼玉県熊谷市で観測した39・8度を上回って国内最高を更新し、初めて40度を超えた。
気象庁によると、東京都心でも35・4度を記録。1875年の統計開始以来、最も早く最高気温が35度以上の猛暑日になった。

そのような中、日傘を差し、できるだけ日陰を歩き、水分補給しながら、まだ見ぬ新宿区の旧町名の探索を決行した。

風があったので、まだよかったが、逆に日傘との格闘で体力を消耗する。
というのは、風が強いと日傘がすぐひっくり返るのである。
他にそんな人は見かけない。自分位だ。
骨が1本外れているし、もう新しいのを買う時期かもしれない。

 

さて旧町名の話題に戻ろう。

「十二社」はすでに「旧町名 東京都新宿区十二社」で紹介済だが、以前撮ったもので、まだ未紹介のものがあったのを思い出したのと、新しく発見したものがあったので、PartⅡとして別な記事で紹介することにした。

 

訪問日 2022年5月10、21、31日、2022年6月2、25日
色々な痕跡収集のため、何度か訪問した。

 

十二社のシンボル的なイチョウの木が伐採され、切り株だけになっていた。
(2022年6月25日)

解体工事のお知らせと建築計画のお知らせ(2022年5月10日)

2022年6月25日

 

在りし日のイチョウの大木

この時は切り倒されるとは思わなかった。
一説によると、樹齢300年らしい。
かつては池の畔に有り、十二社の移り変わりを静かに見てきたことだろう。
残念だ。

 

事前にストリートビューで探索するが、「西新宿新宿4丁目」をすべて探しつくしたはずなので、それで見つかるような場所にあるはずがない。
地図を印刷して、探索する予定の道をラインマーカーで色を塗る。


さあ、現地調査だ。

この階段はいつもテンションが上がる。

この上にある「十二社」の表札?はテープが少しめくれていたが、まだ見れない。
誰か思い切って、〇〇〇〇くれないかなあ。


見覚えがある道ばかりだ。

途中、現存率が非常に少ない現役の木製の電柱があるのに気が付いた。

何度も通ったことがあるはずなのに今まで気が付かなかった。
目立たないよね。

 

かなり上の方にプレートが貼ってあったが、なんて書いてあるか読めない。

 

井戸

どこかの路地に井戸があった。
災害時協力井戸ということなのでまだ現役のようだ。

 

前の記事では"「西新宿4丁目」をすべて探しつくした"と書いたが、そうではなかった。
見落としがあった。

地図にない行き止まりの細い路地があった。

人目を気にしながら入ってみる。

あった!

こんなところに隠れていた。

 

①新宿区十二社二八五

発見日 2022年6月25日

「旧町名 東京都新宿区十二社」で"「西新宿新宿4丁目」をすべて探しつくした”と書いた人は誰だろうか?

・・・

そんなもんだ。

これからは断定はしないようにしよう。

 

何回か訪問しているが、この表札の存在を知ったのは、ごく最近のことだ。
ということで、この表札の探索については今回が初回になる。
初回で発見できたのは、ラッキーだった。

 

②新宿区十二社300

発見日 2020年3月18日

かなり前に発見済だったが、前回の記事で紹介するのを忘れていた。

 

周辺地図


十二社の碑

ここ十二社の池が、池や滝を擁した江戸西郊の景勝地であることを記した記念碑で、嘉永4年(1851)3月に建てられた。
高さ210cm、幅119cm、幕末期に江戸市中の様子を記した『江戸繁盛記』を著した儒学者寺門静軒と、中野宝仙寺の僧侶負笈道人により、当時名高かった景勝地十二社の様子を紹介したもので、表面には負笈道人の撰になる碑文と、寺門静軒による漢詩が刻まれており、字数は262字ある。
裏面は、負笈道人の略歴と人柄を、寺門静軒が記したもので字数は、286字に及ぶ。
書は中川憲齋(日本書堂・大彭を号する)によるもの。

 

神輿倉

 

十二社商店親睦会

 

新宿区立十二社児童遊園

 

朝日新聞十二社専売所

株式会社十二社折込広告社

 

歩道橋に書かれている十二社通り

 

十二社池の上バス停

 

十二社池の下バス停

方位では北に位置するのが池ノ下、南に位置するのが池ノ上だが、かつてこの辺りに十二社池(弁天池)があり、バス停名は標高の高い方が池ノ上、低い方が池ノ下となっている。

 

十二社池

十二社には大小二つの池があり、江戸時代から昭和まで、この地を彩る水辺となっていた。池は、1606(慶長11)年に田畑の用水溜として開削したもので、熊野神社の西南、現在十二社通り沿いにあった。
大池は、南北およそ230m、東西およそ47mあり、水源は湧水であったようだ。
1968(昭和43)年7月に埋立てられた。
大池の北側にあった小池は大池の分水で、南北およそ90m、東西およそ29mあった。昭和初期より一部の埋立てが行なわれ、第二次世界大戦中に姿を消した。

池では、ボート、屋形船、釣り、花火が楽しめ、湖畔には、料亭や旅館が並ぶ、風光明媚な地だったらしいが、今は微塵もその面影は残っていない。