この碑は国分寺駅ではなく駅から北へ約400mも離れた、それも表通りではなくて、商店街から一本入った路地端にひっそりと建っている。
発見日 2022年7月12日
発見場所 東京都国分寺市本多二丁目
正面
電車開通 札之丘十五年 記念道路碑
「電車開通」と「札之丘十五年」が並列で彫られている。
わかりづらいが左下には「樂峯西島久太郎書」と彫られている。
裏面
裏面に彫られている文字を拡大したもの
大正十一年十一月二十一日
国分寺お札之丘
左下に彫られている文字
足立別と読める。
国分寺市のホームページには以下の記載があった。
明治22年(1889年)に、新宿・立川間で開通した甲武鉄道(現在の中央線)が政府に買収され、その後大正11年に国分寺駅まで電化が進み、電車が通ることになったのを記念して、同年11月21日に建てられた碑です。
ということは、この碑は単なる電車開通記念碑ということになるが、記念道路碑とある。
気になったので調べてみよう。
札之丘
以前はここに国分寺パークレーンという名のボウリング場があり、そのボーリング場の敷地の一角にあったらしい。
この辺りは住居表示前には大字本多新田字札ノ丘と呼ばれていた。
札ノ丘は幕府の法令を掲示する高札場があったことに由来しているとのこと。
これで「札之丘」というのが旧町名であることが分かった。
裏面の「國分寺お札之丘」の「お」は何か意味があるのか?
これについては調べたが、謎のまま。
十五年
札之丘から駅までの駅前通りが開通して15年たったということか?
「本多札ノ丘商店会の石川靴店より北側の道路は大正8年頃に造られた新道で、それ以前は本町の古川時計店前でかぎ形に曲り、ファンフル洋菓子店西側より北に向かっている道路が本道だった。」と書かれている記事を見つけた。
これによると新道は大正8年(1919年)頃に造られたとある。古い道は明治40年(1907年)頃に造られたのであろうか?
記念道路碑
電化の記念ではなく電化を機会に道路を造ったか整備したかの記念ということかもしれない。
樂峯西島久太郎
国分寺の鉄道変遷の研究書に「慣楽園(今村別荘)西島久太郎」とあるらしいので、地元の有力者であったのかもしれない。
足立別
これについては全く手掛かりなし。
以上考察してみたが、謎だらけである。
国分寺市のホームページでは説明が足りないと思う。
ということは国分寺市でもすべては把握できていないということなのだろう。
これが大正11年から現存しているということは、今年11月でちょうど百周年となる。
古い歴史のある国分寺市で大正時代のものは新しいものかもしれない。
国分寺市民の方にもほとんど存在が知られていないと思われるこの碑に脚光を浴びてほしいという願いを込めてこの記事を投稿することにしよう。
この記事を読んでくれる国分寺市役所関係の方や国分寺市民の方がいればうれしいのだが、誰もいないだろうなあ。
本多札ノ丘商店会のイベントにでもなってくれたら、うれしいなあ。
色々ネタを見つけてきたので、まだまだ国分寺市関連の記事が続くかもしれない。