歩・探・見・感

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旧町名 世田谷区玉川尾山町 玉川○○町シリーズ①

昨日(2022年10月10日)の体育の日、いや体育の日ではない、いつの間にかスポーツの日に名称が変わっていた。

何時変わったんだ?

調べてみると2020年だった。

特例により、2020年と2021年は東京五輪の開閉会式に合わせて3つの祝日(「海の日」、「山の日」、「スポーツの日」)が移動されたため、2020年の「スポーツの日」は開花式当日の7月24日(金)に、同様に2021年は7月23日(金)になっていたが、
2022年からは10月の第2月曜日に戻ったということだ。

そういえばそんなニュースがあったような気がするが、すっかり忘れていた。

最初投稿した時は、知らなくて、体育の日と堂々と書いてしまった。

訂正前の記事を見た方は、間違っていると思われたことだろう。

気が付いたので訂正させていただいたが、訂正前の記事を見た方はもうこの記事を見ることはないだろうから、訂正したことは知らないだろう。

 

天気予報では暑くなるとのことだったが、最高気温が21.7℃と全然気温が上がらず、少し小雨がぱらついたり、日がさしたりしたが、探索日和と言える日であった。

 

自由が丘駅を降り、奥沢付近を探索後、等々力へ向かう途中、激坂が多い尾山台に立ち寄ってみた。

以前も探索したことがあるのを思い出した。

少しだけだが・・・。

 

途中、こんな坂があった。

寮の坂の道標

右側面 右 九品仏駅 左 多摩川

左側面 右 多摩川  左 籠谷戸

 

道標建立は1985年(昭和60年)頃らしい。

 

寮の坂 由来

 松高山傳乗寺は、区内における古刹であり、その縁起は遠く後伏見天皇の正和五年(1316)と刻まれた板碑の発掘によっても知られるものである。往昔傳乗寺は坂の東側台地に所在し、かつ本堂とならんで僧侶の学寮が建てられていたために、この坂道を土地の人は、寮の坂と呼んでいる。坂上にある民家の屋号が堂の上と通称されていたことと考え合わせると、この坂の名称の由来が思い起こされる。
 なお、寮の坂の東側にある雙葉学園を抱く盆地は、室町時代に籠谷戸と呼ばれる入江で、多摩川の水が滔滔と打ち寄せ、時の奥沢城主太平出羽守は、上流から運ばれた武器、兵糧の類を籠谷戸の寮の坂あたりに陸揚げして城へ運び入れたとも言い伝えられている。
 さらに時代は下り江戸時代に入ると、川崎泉沢寺と奥沢浄真寺の中間軍事拠点として小山傳乗寺がこれに当り、寮の坂は軍用道路として兵馬の往来がはげしかったそうである。

 

今回も激坂の尾山台を苦労して探索した。

と言っても2~3回上り下りしただけだが・・・。

 

今回から世田谷区にかつて存在した旧町名「玉川○○町」シリーズを不定期で始める予定である。

調べてみたところ、玉川がつく旧町名は下記があった。

1.玉川町
2.東玉川町
3.玉川奥沢町
4.玉川尾山町
5.玉川上野毛
6.玉川瀬田町
7.玉川田園調布
8.玉川等々力町 
9.玉川中町  
10.玉川野毛町
11.玉川用賀町

どうして玉川○○町になったのか歴史を辿ってみよう。

1889年(明治22年)5月1日
町村制の施行に伴い、尾山村、奥沢村、等々力村、用賀村、野良田村。上野毛村の全域と、以下の3村の各一部を合併して玉川村が発足(カッコ内は残部の編入先)。
瀬田村(世田ヶ谷村
下野毛村(駒沢村)
衾村(碑衾町)
下沼部村(調布村)
深沢村(駒沢町)

1932年(昭和7年)10月1日
荏原郡全域が東京市編入され、玉川村の区域に世田谷区を設置。旧村域内の町名にはすべて「玉川」を冠した(玉川町を除く)。

「玉川」となったのは、「玉川」が合併する各村に関係のある川で著名な呼称なので採用されたようだ。

世田谷区史には、玉川村が誕生する前の1874(明治7)年、後に玉川村になる等々力村で、村民がお金を出し合って公立小学校を設け、「玉川小学校」と呼んだ、という記述がある。村名より先に小学校名に「玉川」が付けられていた。

「タマガワ」は玉川ではなくて多摩川になったのはなぜだ?

明治時代に入ってからそれまで、様々な「タマガワ」が混在していたものを地名の統一化により、政府が川としてのタマガワの正式表記に「多摩川」を採用した為だといわれているそうだ。

う~ん、「玉川」のままでよかったような気がするが。

 

玉川のことを調べた後は、本題の旧町名の紹介である。

紹介する順序はこの通りではない。

初回の今回は「玉川尾山町」。

 

最初に紹介するのは、以前発見していた「東京市世田谷區」時代のもの。

 

東京市世田谷區玉川尾山町六十一番地

発見日  2021年5月10日

発見場所 東京地世田谷区尾山台二丁目

お宅は新しかったので、残してくれていると思われる。

東京市」と「區」の文字を見るとちむどんどんする。

もう朝ドラ「ちむどんどん」が終わってしまったので、「ばえ~」か。

 

②世田谷区玉川尾山町78

発見日  2022年10月10日

発見場所 東京地世田谷区尾山台二丁目

歴史

1889年(明治22年
それまでの奥沢・尾山・等々力・下野毛・上野毛・野良田・用賀・瀬田の8村が合併して玉川村が成立し、尾山村は大字尾山となった。

1932年(昭和7年
世田谷区成立時に、玉川村大字尾山の区域は玉川尾山町となった。

1970年(昭和45年)3月
住居表示の実施に伴う町区域の変更により、旧玉川尾山町の区域は、尾山台1・2丁目に区画されたほか、旧玉川等々力町1丁目の一部と、旧玉川奥沢町3丁目の一部とを編入して尾山台3丁目とした。

 

地名の由来

江戸中期には「小山村」とある。明治中期、同じ荏原郡にある小山(現在の武蔵小山)と紛らわしくなるため、「尾山」と漢字を充て変えた。小山は国分寺崖線の高台・岡を指すものとされる。

 

尾山台二丁目の地図

薄くなっていて、よく見えなくなっている。

 

角盈男(すみみつお)氏講演会のポスターが貼ってあった。