歩・探・見・感

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ノスタルジック、レトロ、ディープそしてマイナーな世界へようこそ

田端大橋と田端ふれあい橋

再訪したのは雨の日(2023年1月14日)だった。

何日か前の天気予報では、最高気温が最初は19℃、日が経つにつれて低くなりそれでも17℃と言っていたのではないか。

前日の予報は知らないが、当日は10.1℃だった。

 

地図が雨に濡れている。

 

まず、田端ふれあい橋にあったものをいくつか紹介していこう。

橋本体や橋から見える電車、風景を撮るのが普通かもしれないが、そのようなものは一切撮っていなく、あったものしか紹介していないので、あしからず。

 

田端ふれあい橋について

ふれあい橋について

田端ふれあい橋の概要
田端ふれあい橋は、駅前広場と公園機能を合わせもった田端のシンボルとなる歩行者専用の橋です。
この橋は、通勤、通学に利用するだけではなく、散歩道として、または待ち合わせの場所、憩い語らいの場としての快適な歩行空間をつくるとともに、自然の樹木によるやすらぎ、高欄や花壇の自然石による落ち着き、門柱や街灯による時代感を感じさせるものとしました。

田端ふれあい橋の特色
步行部
花壇の形態を波型の曲線にすることにより平面的なやわらかさを出し、カリオンと二本のしらかしによって立体的なアクセントをつけました。中央の白御影石の部分を通行ゾーン、両側のタイル舗装部分は休憩・たまりゾーンとしています。

植栽
花壇の縁石には赤御影石を使用しそのその重厚感による落ち着きを出すとととも、座って 話をしたりすることができます。 樹種は四季折々の花や葉が楽しめるように数多くの種類を配しています。

高欄
木の枝をモチーフしたデザインは花壇の植栽と一体感をなし、快適な歩行空間をつくり出しています。

門柱
大正時代の洋風赤れんが造りと銅板の屋根により、この橋の入口を表現しています。

カリオン
文化の香り高い田端の発展を望んで 「希望の鐘」と名づけました。橋の中央に位置し、四種類の音色で時を知らせます。

展望窓
上野駅川二か所に電車や線路が見える幅四mの大きな展望窓があります。

平成四年三月

東京都北区

 

東北新幹線200系で使用されていた連結器カバー

 

東北新幹線200系で使用されていた車輪

 

40Kレールとポイントリバー

東北新幹線で使用されていたレールと列車の運転方向を切換える装置

 

田端文士・芸術家村について
田端機工街について 

田端文士・芸術家村について
田端には、明治時代末期から大正~昭和時代初期にかけて、画家、陶芸家、彫刻家、俳人歌人、文学者、小説家がこの地域に住み、当時の日本文化をリードしていたため、田端は日本のモンマルトルと呼ばれていました。
明治三十三年に小杉未醒が住み始めてから明治末期に至るまでは「芸術家村」として知られ、その後大正三年に芥川龍之介が住んでからは次々と文士が住むようになり、一躍「文士村」に変身しました。

田端機工街について
田端新町から昭和町にかけての明治通り沿いを中心として、大小約百軒の各種機械器具製造工場が軒を並べています。
これらの町工場は、昭和初期から昭和二十年頃までの間に各地から集まってきたものであり、その当時明治通りは、京浜工業地帯から 川口鋳物工場へ材料を運搬する経路となり、その途中にあるこの一帯に作業工具の店や材料、機械を製造する店が建ったと言われています。
その後、満州事変や日中戦争第二次世界大戦などの戦争景気の影響を受けて目覚ましい発展を遂げてきましたが、当地域には軍の施設や軍工場があったため、戦争による空襲を免れることは出来ませんでした。
戦後は、戦前の半分程度に減ってしまったと言われますが、現在でも百軒近い機会製造工場が活発な活動を続けています。

平成四年三月

東京都北区

 

 

東田端鉄道八景

ふれあい橋 暮雪

木の陰に隠れていて、この存在に気が付く人は少ないのではないか。

残り七つ「夜雨やう」「晩鐘ばんしょう」「落雁らくがん」「晴嵐せいらん」「帰帆きはん」「夕照せきしょう」「秋月しゅうげつ」があるらしいが、どこにあるのだろう。

 

ようやく本題の「田端大橋」について

 

田端大橋

昭和十四年三月

東京府

 

旧田端大橋の生い立ち

橋の由来
旧田端大橋は、昭和10年に架設された突桁式下路桁三径間ゲルバー式全溶接橋です。当時、この橋は現場継手部も溶接した文字どおりの全溶接橋として東洋では最初で最大級の橋として注目を浴びました。
この溶接技術は、その頃の造船技術(軍艦建造技術)を生かしたものであり、当時の技術者が遭遇した数々の苦労話が残されています。

橋の概要
 竣工年月日 昭和10年12月27日
 形式    突桁式下路版桁三径間ゲルバー式
 橋長    135m
 橋梁幅   13.80m
 道路幅員  11m(当時)
 総鋼重量  約591t(当時)

残存の経緯
旧田端大橋は、近年経済発展に伴う自動車交通量の増加と年月の経過による老朽化が進んだため、東京都は、昭和62年(1987)に新田端大橋を架設しました。
新田端大橋が開通したことにより、本橋の役目は終り、当初の計画では撤去する予定でありました。しかし歴史的にも学術的にも貴重な橋であり、また地域住民の方々から歩道橋として再生利用の強い要望があることを考え、田端ふれあい橋として生まれ変ることになりました。
平成4年3月                            東京都北区

 

「北区飛鳥山博物館だより」には次のように記載されていた。
ぼいす37
発 行 日 平成28年9月20日
編集・発行 北区飛鳥山博物館

田端駅は明治29年(1896)に開業し、今年開業120周年となります。平成20年(2008)には、新しい田端駅ビルがオープンし、駅前も大きく様変わりしました。写真は、昭和37年頃の田端駅前の様子です。手前に見える屋根が田端駅の駅舎で、駅前はロータリーになっています。奥に向かって伸びている道路は田端大橋で、両側の歩道には、通行する人も見えます。元々、田端駅には低地側と台地側をつなぐ人道橋が架かっていましたが、昭和初期、付近の発展に伴い交通量が増大したことから、東京府鉄道省が協議し、田端大橋および接続する道路の整備が行われました。駒込動坂方面から下田端を
経て明治通りへ至る計画道路のための跨線橋として作られた田端大橋は、昭和10年(1935)に完成しました。すべて電弧(アーク)溶接を用いて作られた鉄骨造で、写真に見える歩道と車道を隔てる壁状のものが橋の主桁になります。それまでの鉄骨造の橋梁はリベットで接合することが一般的でしたが、全長134mの田端大橋は、当時実用化が進んだ電弧溶接を本格的に採用し、溶接橋梁としては世界的な橋長を誇りました。橋桁の製作は神戸に所在した川崎造船所艦船工場が請け負っています。田端大橋は、桁と橋脚部を保存し、その上に歩行者通路を新たに設けた「田端ふれあい橋」として現在も
使われています。

 

田端ふれあい橋を降りたところにこれを発見した。

昭和十四年三月

東京府

と彫られている。

 

ふれあい橋にあったものと同じだ。

 

プレート

ところどころ読めないところがある。

昭和九年 ○○○第六一號

株式會社 川崎造船所製作

一等橋荷重

鐵道

東京府

材料

L.日本製鉄株式会社

E. ○    上

L.○上.日本鋼管株式会社

○.○野製鉄株式会社

 

ここには昭九年とある。

田端大橋は、昭和10年(1935)に完成したそうなので、それより前である。

石に彫られているのは昭和十四年だ。

昭九年と昭和十四年、この年号は何を意味するのか、調べた限りは分からなかった。

 

○○○第六一號の○○○は何と読むのか?

 

一等橋荷重については、調べていたところ、古い基準かもしれないが「道路構造令により,その路線の重要性、交通量、通過荷重などを考慮して、自動車荷重20tonで設計されたものを一等橋、14tonで設計されたものを二等橋としている。」というものがあった。

 

アルファベットのL、E(ではないかもしれない)の意味は?

 

○野製鉄とはどこか?

 

なぜこれがここに設置されているのか?

なぜ説明板がないのか?

なぜこれをふれあい橋に設置しなかったのか?

 

ネットで調べてみたが、知りたいことがわからないことだらけで、鉄道マニアでもない自分の限界を感じた。