歩・探・見・感

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石川啄木歌碑と旧町名「京橋區瀧山町」

発見日  2023年2月4日

発見場所 東京都中央区銀座六丁目6-7

 

銀座で歩道を歩いていた時に、反対側の歩道に鳥の彫刻があるのに気が付いた。

キツツキ?

 

後ろにはROLEXの文字が見える。

 

道路を渡って近寄ってみると木の幹の形をした石川啄木の歌碑だった。

この道は歩いたことがあるはずだが、今まで気が付かなかった。

京橋の瀧山町の

新聞社

灯ともる頃のいそがしさかな

           啄木

 

この歌の「京橋の瀧山町」が気になった。

京橋區時代の旧町名なのだろうか?

 

裏側に回答があった。

 

京橋の瀧山町の由来

京橋の名は維新後の明治十一年に新たに制定された区名で昭和二十二年に現在の中央区に改められるまで七十年の間都民にしたしまれてきた区名です。
瀧山町の名は江戸開府ののちこの地を開拓した名主瀧山藤吉の名を偲ぶもので昭和五年銀座西六丁目に改称されるまで徳川時代から続いた由緒のある町名です。現在は中央区銀座六丁目と又新しく表示されております。

昭和四十八年四月一日

歌の書体は歌集「一握の砂」初版本の活字を拡大して用いました

 

町名の由来は竹林があったためとする説もある。

 

瀧山町を歌ったものがもう一首あるようだ。

春の雪
瀧山町の三階の煉瓦造に
よこさまに降る

  初出「東京朝日新聞」1910年(明治43)5月16日号

 

石川啄木の晩年の新聞社勤務の3年間の様子を記載した碑文。

石川啄木が瀧山町の朝日新聞社に勤務したのは 明治四十二年四月から四十五年四月十三日二十七歳でこの世を去るまでの約三年間である この間彼は佐藤真一編集長をはじめとする朝日の上司や同僚の厚意と恩情にまもられて 歌集「一握の砂」「悲しき玩具」詩集「呼子と口笛」など多くの名作を残し 庶民の生活の哀歓を歌うとともに時代閉塞の現状を批判した
銀座の人びとが啄木没後満六十年を記念して朝日新聞社跡に歌碑を建立したのはこの由緒によるものである

    昭和四十八年四月一日
    日本大学教授 文学博士 岩城之徳

 

上の鳥はやはりキツツキだった。
石川啄木の本名は「一」(はじめ)。
啄木は、キツツキの意味で、文筆活動をする上でのペンネームだったそうだ。

出身地の岩手県にはキツツキが多く、故郷で病気療養をしていた際に、窓の外から聞こえてくるキツツキが木をつつく音に心を慰められたことから、「啄木」というペンネームを使うようになったという説がある。

キツツキという鳥がいると思ったのだが、正確にはキツツキ目キツツキ科に属する鳥だった。
つまり、キツツキっていうのは、鳥の名前そのものじゃなくて、いくつかの鳥の種類をまとめたグループ名みたいなものだった。
種類としてはアカゲラアオゲラクマゲラコゲラ、アリスイがいるらしい。

その中で啄木が親しんだキツツキは、「アカゲラ」だったようだ。

 

銀座の人これを建つ

ガードレールが邪魔だったので真上から撮ってみたが、下の方の文字が読みにくい。

「銀座の人」とはどのような方々だったのだろう?

 

これに気が付く人は当然、石川啄木の歌碑として見るのだろうけれど、旧町名の痕跡のひとつとしてとらえてしまう自分だった。

 

ほとんど名前しか覚えていない石川啄木について少しだけだが触れることができた。