歩・探・見・感

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交差点名「紺屋町」と南北に分断されている神田紺屋町

交差点名を見て違和感を感じた。

「Kon-yacho」となっておるやん。

「紺屋町」は「こん やちょう」と区切って読むんか?

知らんかった。

いや、そんな読み方するわけないよね。

 

近くにあった千代田区エリアマップを見てみた。

交差点と歩道橋は「Kon-yacho」となっているが、町名は「kon'yacho」になっている。

どういうこと?

調べてみると

神田紺屋町神田東紺屋町の場合、「Kanda-kon'yacho」「Kanda-higashikon'yacho」のようにアポストロフィ (') で区切って表記する。アポストロフィで区切らない「konya」のままでは「こにゃ」と発音する為「kon'ya」と表記する必要がある。

とあった。

ヘボン式ローマ字表記では、はねる音を表わす n と次にくる母音字または y とを切り離す必要がある場合には、n の次にハイフン(-)を入れる、とある。

 

歩道橋に書かれていたものはというと、

「HigashiKonyacho」となっている。

上のルールとは違っていた。

表記方法の違いで、どれが正しいということはないのだろうけど、統一してほしいね。

 

上のエリアマップを見ると神田紺屋町が二つに分かれているのに気が付いた。

神田北乗物町の上と下にある。

この辺りはよく歩いていたのに、今まで気が付かなかった。

どうしてだ?

理由は町名由来板に書かれていた。

 

神田紺屋町(南部)

この界隈(かいわい)は、慶長(けいちょう)年間(1596年~1615年)に徳川家康から軍功として関東一円の藍(あい)の買い付けを許されていた紺屋頭土屋五郎右衛門(こんやがしらつちやごろうえもん)が支配していた町でした。そのため、町には五郎右衛門の配下の染物職人が大勢住んでおり、いつしか「紺屋町(こんやちょう)」と呼ばれるようになったのです。
江戸を代表する藍染めの浴衣(ゆかた)と手拭(てぬぐい)の大半は、紺屋町一帯の染物屋で染められました。「その年の流行は紺屋町に行けばわかる」と言われていたほどで、紺屋町の名物が江戸の名物でもありました。つまり、ここが流行の発信地だったわけです。ちなみに、「場違い」という言葉がありますが、これは紺屋町以外の地区で染める浴衣や手拭い染めのことを、江戸の人がそう呼んだことに由来するそうです。
町内には古くから藍染川(あいぞめがわ)という小川が流れていました。幅一間(約1.82メートル)ほどの川で、染物の布を洗い流していたことから、そう呼ばれるようになったそうです。「狂歌江都名所図会(きょうかえどめいしょずえ)」には、「紺屋町近くにありて藍染の川の流れも水浅黄(あさぎ)なり」などの歌が詠(よ)まれており、江戸では有名な川であったことがわかります。
万治(まんじ)年間(1658年~1661年)、あるいは天和(てんな)年間(1681年~1684年)には、紺屋町の南方(現在の神田美倉町(かんだみくらちょう)、神田東紺屋町(かんだひがしこんやちょう)、神田西福田町(かんだにしふくだちょう))に火除地(ひよけち)が設けられました。明暦(めいれき)三年(1657年)の「明暦の大火(振袖(ふりそで)火事)」をはじめ、火災が相次いだことを受けて、幕府が神田堀一帯の民家を取り払い、土手を築き、松の木を植えました。のちに土手の南側には掘割ができましたが、その堀の長さが八町(丁)あったため、「八丁堀(はっちょうぼり)」と呼ばれるようになったそうです。

 

神田紺屋町(北部)

慶長(けいちょう)年間(1596年~1615年)に誕生したこの町には、藍染(あいぞ)めを手がける染物屋(そめものや)が軒(のき)を連ねていました。「紺屋町(こんやちょう)」という町名は、そのために生まれたとされています。
明治維新以降も、紺屋町には多くの染物屋が集まっていたようです。明治時代後半の東京を描いた「風俗画報(ふうぞくがほう)」は、この界隈(かいわい)の景観について、次のように記述しています。
「……其(そ)の晒らせし(さらせし)布は概ね(おおむね)手拭染にして……晴天には、いづれ晒らさぬ家もなく、遠く之を望むに、高く風に翻へりて(ひるがへりて)、旗の如く又幟(のぼり)の如く、頗ぶる(すこぶる)美観なり」
藍や紺の手染めの布が、あたかも万国旗のように町を彩っていた(いろどっていた)というわけです。また、「狂歌江都名所図会(きょうかえどめいしょずえ)」には、「紺屋町近くにありて藍染の川の流れも水浅黄(みずあさぎ)なり」と、川の水まで浅黄色(藍色を薄めた色)をしていると詠まれて(よまれて)います。いずれも江戸時代から明治期にかけて、手拭い(てぬぐい)や浴衣(ゆかた)の一大生産地だった町のさまをほうふつとさせる描写です。
「その年の流行は紺屋町に行けばわかる」といわれ、江戸の流行の発信地でもありました。紺屋町で染められた手拭いや浴衣は、江戸っ子たちにもてはやされ、なかには紺屋町以外で染めたものを「場違い」といって敬遠する人まで現れたほどです。
ところで現在、紺屋町には、紺屋町北部町会と、紺屋町(南)町会の二つの住民組織があります。その理由は、両町会の間に神田北乗物町(かんだきたのりものちょう)が存在し、町そのものを南北に分けているからです。こんな不可思議な町の形が生まれたのは、江戸時代の享保(きょうほう)四年(1719年)のことでした。当時、神田北乗物町の南側だけに集まっていた紺屋町の一部が、幕府の命令によって北乗物町の北部に移されたのです。その跡地は、防災用の空き地となりました。災害から町を守るための幕府の施策が、このような町の配置を生み出したものと思われます。

 

 

信用金庫にお神輿、半纏、パネルが飾ってあった。

お神輿

半纏

パネル

慶長(けいちょう) 年間(一五九六~一六一五)に誕生したこの町には、藍染 (あいぞ)めを手がける染物屋 (そめものや)が軒(のき)を連ねていました。「紺屋町(こんやちょう)」という町名は、そのために生まれたとされています。
明治維新以降も、紺屋町には多くの染物屋が集まっていたようです。明治時代後半の東京を描いた「風俗画報(ふうぞくがほう)」は、この界隈(かいわい)の景観について、次の ように記述しています。
「・・・・・其(そ)の晒(さ)らせし布は 概(おおむ)ね手拭染にして・・・・・晴天には、いづれ晒らさぬ家もなく、遠く之を望むに、高く風に翻(ひるが) へりて、旗の如く又幟(のぼり)の如 く、顔(すこ)ぶる美観なり」
藍や紺の手染めの布が、あたかも万国旗のように彩(いろど)っていたというわけです。また、「狂歌江都名所図会(きょうかえどめいしょずえ)」には、「紺屋町近くにありて藍染の川の流れも水浅黄(みずあさぎ) なり」と、川の水まで浅黄色(藍色を薄めた色をしていると詠(よ)まれています。いずれも江戸時代から明治期にかけて、手拭(てぬぐい)や浴衣(ゆかた)の一大生産地だった町のさまをほうふつとさせる描写です。
「その年の流行は紺屋町に行けばわかる」といわれ、江戸の流行の発信地でもありました。紺屋町で染められた手拭いや浴衣は、江戸っ子たちにもてはやされ、なかには紺屋町以外で染めたものを「場違い」といって敬遠する人まで現れたほどです。
ところで現在、紺屋町には、紺屋北部町会と、紺屋町(南)町会の二つの住民組織があります。その理由は、両町会の間に神田北乗物町(かんだきたのりものちょう)が存在し、 そのものを南北に分けているからです。こんな不可思議な町の形が生まれたのは、江戸時代の享保(きょうほう) 四年(一七一九)のことでした。当時、神田北乗物町の南側だけに集まっていた紺屋町の一部が、幕府の命令によって北乗物町の北部に移されたのです。その跡地は、防災用の空き地となりました。災害から町を守るための幕府の施策が、このような町の配置を生み出したものと思われます。

 

紺屋町の発生

神田紺屋町は昔は桜ヶ池(俗称お玉ヶ池)の池中にあったと伝えられています。慶長年間市街地となったもので、当時、染物屋が多く住んでいたため「紺屋町」と命名されたものです。また、一説には、当時は諸士の宅地でしたが、幕府の時染物国役銀を差出したため町名になったとも伝えられています。
万治年間あるいは天和年間、紺屋町南方の地(今日の美倉町、東紺屋町、西福田町)を割いて火除地とし、その代地として、一丁目は戸田対馬守等四家の宅地あとを取払い、紺屋町一丁目代地と称し、二丁目は松平伊豆守邸址(今日の元柳原町)を三丁目代地として与えられました。このように当時、紺屋町一丁目、二丁目、三丁目、代地と分けて区別したのですが、明治二年四月、一丁目、二丁目、代地及び岸町(今日の神田黒門町) 飛地を合せ単に「 紺屋町」と定め、別に三丁目は紺屋町一丁目代地、本銀町会所屋敷、佐柄本町代地、永富町二丁目台地を併せて、「東紺屋町」と名称を定めました。(此辺里俗、於玉ヶ池と称す)

 

紺屋町の名物

さて江戸を代表するものの一つとして浴衣と手拭染は紺屋町を中心とする一帯の染物屋 染め上げられたもので、(他区で染める浴衣、手拭染を江戸ッ子は場違いと云った)当地の流行は実に紺屋町あたりから発生したものであって、その年の流行は紺屋町に来れば判明するとまで云われました。そのように此処の名物は即ち江戸の名物であったようです。初代広重も江戸名所百景の内「神田紺屋町」の錦絵を一枚加えようということもうなずけます。
明治三十三年二月「風俗画報」に、「幕府の頃には御染物屋敷(元柳原町)もありて、また紺屋町といい、藍染川といい有縁に地なり、その晒らせし布は概ね手抜染にして幕府数万の供給は是等の工の手に成れば晴天にはいづれも晒さぬ家もなく、遠く之を望むに、高く風に翻りて、旗の如く又幟の如く頗ぶる美観なり」とあります。
しかし今日では染物屋もわずかに指を屈するのみで再び昔の盛観を忍ぶことは出来ません。

 

藍染

紺屋町には古くより「藍染川」と云う溝川が流れていました。鍛冶町の通りを横切り紺屋町に流れ弁慶橋(大工棟梁弁慶小左衛門の工夫により架けらると云う。今日の元岩井町裏通辺)に注ぐ幅一位の大溝のことです。
「江戸砂子」に「藍染川、 又逢初川と云、神田かじ町一丁目より紺屋町へ落ちる大溝なり一丁ほど上にて南北の水落合、両方の水逢そめ、此処よりおつるゆえに云うとぞ。又紺屋町のうら通りゆえ其の縁によりていうとも。」とあり又「江戸名所図会」も同じ意味に載せてあります。しかしながらやはり紺屋町を流れるので藍染川と云う方が正しいように考えられます。
狂歌江都名所図会」に
「紺屋町近くにありて藍染の川の流れも水浅黄なり」
「紺屋町藍染川もほど近き今川橋に瓶も並びつ」
などがあり、この溝川が相当に知られてあったことが推察できます。

 

全国の城下町には数多くの紺屋町があり、又、江戸にも三ヶ所あったが、現在の東京には神田紺屋町が残っているのみ。

紺屋町南町会の該当区域は紺屋町1〜25番地、紺屋町北部町会は紺屋町26〜48番地となっている。

 

撮影日 2023年5月21、27日