歩・探・見・感

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ノスタルジック、レトロ、ディープそしてマイナーな世界へようこそ

東京大学周辺の弥生式土器発見地と言われているところを探索する 

以前も付近を探索したことがあるのだが、東京大学の構内を見学できることを知り、再び訪問することにした。

 

訪問日 2023年4月15、18日

プロローグ

東京大学工学部の言問通り沿いの片隅に「弥生式土器発掘ゆかりの地碑」と「東京大学浅野地区遺跡案内」が設置されている。

 

付近にあった地図

 

弥生式土器発掘ゆかりの地碑」と書かれているものと「弥生式土器発掘の地碑」と書かれているものがあった。
「発掘の地」と断定している地図がとても気になるが、実際には「弥生式土器発掘ゆかりの地碑」なので、誤記なのかな?
と細かいことが気になる自分だった。

弥生式土器発掘ゆかりの地碑

 

裏面

建碑のことば

弥生式土器は、ここ向ヶ岡弥生町(現在弥生二丁目)内の数ヵ所から初めて出土発見され、町名を冠して「弥生式」と名づけられました。
遠いむかし、人々はこのあたりに住みつき、日本文化の曙を告げたのです。 弥生式土器、向ヶ岡遺跡の発見によって、弥生時代という重要な文化期の存在が知られました。私たちは、こうした歴史の壮大で匂やかなロマンを憶いふるさとわが町の誇りを語りつぎ、出土と命名の史実を末永く顕彰するため、この記念碑を建てました。
昭和三十九年、行政措置によりこの町は弥生二丁目と変りましたが、 町会名は歴史的な名を継承しております。
昭和六十一年夏 七月吉日
向ヶ岡弥生町会有志
高橋石材 刻

東京大学浅野地区遺跡案内

東京大学浅野地区遺跡案内 弥生二丁目11

東京大学浅野地区の名称は、明治20年(1887) 「本郷区向ヶ岡弥生町に移転した浅野侯爵邸敷地の大部分がその後、大学敷地となったことに由来しています。
浅野南門を入ったところには、「向ヶ岡弥生町」の町名由来となったとされる「向岡記碑」が置かれています。これは、文政11年(1828) 3月10日に水戸藩徳川斉昭によって碑文が書かれ、水戸藩中屋敷に建てられたもので、かつては工学部10号館の西側にありました。
浅野地区は、「弥生時代の名称の由来となった土器が発見された「弥生町遺跡群」の一角にあたり、弥生時代の遺跡が確認されました。
国指定史跡の「弥生二丁目遺跡」及び武田先端知ビルに設置された遺跡の解説は、自由に見学ができます。
また、浅野地区では明治時代の遺跡も確認されています。このうち、武田先端知ビルでは、明治10年(1877)から演習を開始した警視局(現警視庁)射的場が確認され、弾丸が出土しました。

文京区教育委員会 令和4年3月

 

この説明板は去年(2022年)設置された新しいものだった。

平成18年3月に設置されたものがあったようだが、「向岡記碑」が移設されたことによるためか、それは撤去され、これに置き換わったようだ。

 

東京大学浅野地区遺跡案内」に浅野地区の弥生時代の遺跡の地図があった。

A. 弥生二丁目遺跡
B. 全径間風洞実験室新営に伴う調査

 

下記の看板が設置されている。

遺跡を見学したいのだが、東京大学に入れるのだろうか?

 

この看板があり、以前は入れないと思って、あきらめていた。

しかし、最近何かのきっかけで調べていたら、見学できることが分かった。

これは行くしかない!

本郷キャンパスの見学

無縁坂方面から歩いていくと、門があり、そこから入って行く一般人と思われる親子連れがいたので、付いていくように潜入開始。

この門は「鉄門」という名だった。

目的地は浅野キャンパスなのだが、本郷キャンパスから見学。

この日(2023年4月15日)は雨だったので、「三四郎池」にも訪問したが、あまり写真を撮らず、ぐるぐると見学。

本当は一周したかったのだが、途中、傘を差したカップルが抱き合っていたので、邪魔をしてはいけないと思い、引き返す。
自分の前を歩いていた学生たちが行かないで、途中の坂を上って行ったのでなぜかなと思っていたのだが、そういう訳だったかとガッテンした。

本郷キャンパスを後にして、浅野キャンパスに向かう。

「向岡記」 碑

以前は道路からしか撮れていなかったが、ようやく間近で対面することができた。

本郷区向ヶ岡弥生町」の町名や「弥生式土器」の名称の由来となった「向岡記」 碑。

酸性雨等で上部に刻まれた「向岡記」の文字すらも消えかかり、草書体の歌や詞書もほとんど読めなくなっている。

 

どのように立っているのかと思い横から見てみた。

斜めに立てかけられているように見える。

 

碑文の復元

 

文政九年(1826)『向陵彌生町舊水戸邸繪図面』

「向岡記」碑は、平成二十年(2008)、東京大学百三十周年記念「知のプロムナード」の学内整備に伴い、碑の破損部分の修復、保存処理を施し、情報基盤センターに設置、展示したものである。
碑は、後の水戸藩九代藩主 徳川斉昭の自撰自書で、寛永寺の寺領「忍岡」の向かいの「向岡」に位置した水戸藩中屋敷駒込邸)に建立された。駒込邸は、現在の本郷地区の北端、浅野地区、弥生地区と住宅地に該当し、藩主の隠居所、藩士の長屋、上屋敷の被災時は避難所などに土地利用された。
碑の石材は、茨城県産の寒水石の転石が用いられている。題額「向岡記」は極めて珍しい「飛白体」で、碑文は草書体、六三七字からなり、凹凸部分や割れ部分を避けて丁寧に勢いよく彫られてる。斉昭は「文政十萬梨一登勢止移布年能夜余秘能十日」(文政十一年(1828)弥生(三月)十日)、「向岡」 の由来を碑に記し、文末に

「名尔進於不 春爾向賀 岡難連婆 余尔多具肥奈岐 華乃迦計哉」
(名にし負ふ 春は向ひがなれば 世に類無き 華の影哉)

と詠んでいる。
碑が建立された殿舎と庭園のあった場所は、現在の浅野地区と考えられる。碑文の 「咲満他留佐九良賀本迩志亭」(咲満たるさくらが本にして)より、水戸徳川氏の華やかな大名庭園が想像できる。
明治五年(1872)に名付けられた 「本郷区向ヶ岡弥生町」の町名は、碑文の「夜余秘」(弥生)からとられたものである。 明治十七年 (1884)、東京大学の学生であった有坂鉛三らによって弥生町で発見された土器は、後に町名から「弥生式土器」と命名されるが、「弥生式土器」の名称の本家本元は、町名の由来となった「向岡記」 碑なのである。
「向岡記」碑は、明治二十年(1887)、この地に移転した浅野家の所有となる。 昭和十六年(1941)浅野家の移転に伴い、昭和十七年(1942)五月、浅野家当主浅野長武氏より、碑と拓本が本学へ寄贈された。工学部九号館北の共済寮庭園に置かれていた碑は、エ学部十号館建設に伴い同館西側に移され、今回、当所に設置された。本郷地区には赤門、三四郎池など、 加賀藩邸の遺構が残されているが、駒込邸の痕跡は、明治時代以降の官有地化と宅地化、大学建設により跡形もなく破壊されてしまった。この地に水戸藩駒込邸があったことを知ることができる唯一の文化財が「向岡記」碑なのである。

弥生二丁目遺跡

弥生二丁目遺跡
国指定史跡 昭和51年6月7日指定

昭和50年(1975)校舎の増築に先立ち考古学研究室が発掘を行ったところ、台地の緑に沿って弥生時代の集落を囲む環濠(空掘)の一部が発見され、壕の中からは食料にされたカキなど貝殻の層と弥生土器が出土しました。現在は大学の建物によって大きく損なわれていますが、この台地上に広く弥生時代の遺跡が存在したことになります。
ところで、明治17年(1884)、考古学に興味を持つ東大の学生たちが、この付近で大昔の土器を採集しましたが、後にその種の土器は 「縄文土器」と区別されることが分かり、最初の発見地の町名をとって「弥生土器」と呼ばれるようになりました。「弥生時代」の名称の由来です。土器が発見された正確な地点(当時、向ヶ岡貝塚と呼ばれた)について意見は分かれますが、この場所を含む集落遺跡に関連するに違いありません。 その学史的、学術的重要性のため、増築計画は変更され、国の史跡として保存されることになりました。
明治17年頃、このあたりは人家もない寂しい場所であったそうです。この地点にかろうじて残された段丘地形と雑木林が、わずかに当時の風景を偲ばせます。

 

以前は草地だったようだが、全体を保護するように黒いシートが敷かれていた。

 

弥生二丁目遺跡に生えている大木

 

ここを下から見るとどうなのだろう。

 

弥生坂沿いに遺跡のある台地を下っていく。

弥生坂(鉄砲坂)
弥生一丁目と二丁目の間
かつて、このあたり一帯は「向ヶ岡弥生町」といわれていた。元和年間(1615~24) の頃 から、御三家水戸藩の屋敷(現東大農学部地震研究所)であった。隣接して、小笠原信濃守の屋敷があり、南隣は加賀藩前田家の屋敷(現東大)であった。
明治2年(1869)これらの地は明治政府に収公されて大学用地となった。明治5年(1872)には、この周辺に町家が開かれ、向ヶ岡弥生町と名づけられた。その頃、新しい坂道がつけられ、町の名をとって弥生坂と呼ばれた。明治の新坂で、また坂下に幕府鉄砲組の射撃場があったので、鉄砲坂ともいわれた。
弥生とは、水戸徳川斉昭候が、文政11年(1828) 3月(弥生)に、このあたりの景色を詠んだ歌碑を、屋敷内に建てたからという。
     名にしおふ春に向ふが岡なれば 世にたぐひなき花の影かな
                     徳川斉昭

郷土愛をはぐくむ文化財
文京区教育委員会 平成11年3月

 

台地の下から遺跡を見る。

遺跡が台地上にあることがよくわかる。

方形周溝墓

武田先端知ビルで見つかった方形周溝墓

浅野地区は、「弥生時代」の名称の発祥となった土器が、明治17年(1884)に発見された 「弥生町遺跡」の一角にあたります。武田先端知ビル建設に伴う発掘調査(埋蔵文化財調査室、2001)で、弥生時代の方形周溝墓2基を検出しました。
方形周溝墓は、弥生時代から古墳時代前期の墓の一種で、方形に溝をめぐらし、内側に低丘を 盛上げ、その中央部に遺骸を埋葬する土壙を掘った墓です。方形周溝墓は、現地表面から3m 地下の旧谷跡につくられました。前面に黒いタイルで、検出した方形周溝墓を実物大で示しま した。方形周溝墓の上部は明治時代の開発に伴い削平されたため、遺物の一部は破壊されてしまいましたが、周溝とその周辺から弥生式土器弥生時代後期後半)5点、土壙から副葬品のガラス小玉(紺色22点、青色2点)、石製管玉(赤色4点)が出土しました。この方形周溝墓は、移築し埋蔵文化財調査室で保管しています。
浅野地区では、「弥生二丁目遺跡」の調査(考古学研究室、人類学教室、1975)環濠集落、全径間風洞実験室新営支障ケーブル移設その他に伴う調査(埋蔵文化財調査室、1996)で方形周溝墓が確認されています。
これらの調査から、浅野地区北東側に広がっていたと推定される、環濠集落の西側に営まれていた墓域の広がりを確認することができました。

 

弥生式土器 (高さ40.2cm)

東京大学総合研究博物館に展示されていると思って入館したのだが、受付にいたボランティアの方に聞いたところ、今は展示されていないとのことだった。
残念。

 

ガラス小玉と管玉の材質分析

ガラス小玉と管玉の材質を、タンデム加速器研究施設(MALT)でPIXE分析(荷電粒子励起X線分析 Particle Induced X-ray Emission)しました。
その結果、紺色ガラス小玉18点、青色ガラス小玉2点の材質は、主成分がSiO2 77~84wt%(重量%)、K2O6~11wt%、Na, Ca濃度が極めて低い典型的なカリ石灰ガラスでした。着色成分は、紺色にはマンガン鉱物、青色には銅が使用されていました。管玉の分析では、SiO2 93~97.5wt%、Fe2O3 1~5wt%、Al2O3  0.7~1.5wt% を示し、極めてSiO2濃度の高い鉱物がそのまま用いられていたと考えられます

 

方形周溝墓

遺跡公開

ガラス小玉、管玉

 

浅野正門の駐車ゲートの入口付近に黒いタイルで方形周溝墓の検出位置が実物大で示されている。

弥生式土器」の発見地

国指定史跡 弥生二丁目遺跡
弥生式土器」の発見
明治十七年、東京大学坪井正五郎白井光太郎と有坂鉊蔵の三人は、根津の谷に面した貝塚から赤焼の壺を発見した。これが後に、縄文式土器と異なるものと認められ、町名をとり、弥生式土器」と命名された。

発見地はどこか
弥生式土器」の発見地は、その後都市化が進むなかではっきりしなくなり、謎とされてきた。推定地としては、次の三か所が指摘されている。(左の図参照)
東京大学農学部の東外側(サトウハチロー旧居跡付近)
農学部と工学部の境(現在地付近)
③根津小学校の校庭裏の崖上

弥生二丁目遺跡の発掘
(図の4の地点)昭和四九年春、根津小学校の児童が、東大構内旧浅野地区の工学部九号館わきで倒れた木の根元から土器片や貝殻を採集した。これがきっかけで発掘調査が行われ、二条の溝と貝層、弥生式土器等が検出された。都心部における弥生時代の数少ない貝塚を伴う遺跡として重要であることが評価され、昭和五一年に弥生二丁目遺跡として国の史跡に指定された。
しかし、「弥生式土器」の発見地は、特定するにいたっておらず、現在も調査研究がすすめられている。
文京区教育委員会 平成二二年三月

 

昭和五十八年二月に設置されたものは下記の文章になっていたようだ。

弥生式土器の発見
明治17年東京大学の坪井又五郎、臼井光太郎と有坂鉊蔵の三人は、根津の谷に面した貝塚から赤焼きの壺を発見した。これが後に、縄文式土器とは異なるものと認められ、町名をとり弥生式土器命名された。この遺跡は、考古学上重要な遺跡で、向ケ岡遺跡といわれる。
○向ケ岡遺跡はどこか
この遺跡の位置は、その後、都市化がすすむなかではっきりしなくなり謎とされてきた。
推定地としては、次の三カ所が指摘されている。(左の図参照)
東京大学農学部の東外門(サトウハチロウ記念館付近)
東京大学農学部と工学部の境(現在地付近)
③根津小学校の校庭内の崖上
○弥生二丁目遺跡の発掘
(図の④の地点)昭和49年春、根津小学校の児童が、東大校内旧浅野地区の工学部九号館わきで、倒れた木の根元から土器片や貝殻を採集した。これがきっかけで、発掘調査が行われた。そして明治17年発見の弥生式土器に極めて類似する土器が出土した。(弥生二丁目遺跡として国の史跡に指定)
弥生式土器の発見地
根津の町を眼下に見、不忍池を望むとされる最初の弥生式土器の発見地(幻の向ケ岡遺跡)の位置は、継承の推定の三地点が崖段から離れていたり、不忍池が見えなかったりで適当でないと言われる。
弥生二丁目遺跡(図の④地点)は、文献上からも出土品からも、最初の弥生式土器の発見地に近似(?)するという考え方が有力である。なおこの遺跡は調査後埋め戻された。

 

最近のものと昭和五十八年二月に設置されたものを比較してみると、いくつか変更された箇所が見受けられる。
後の調査により、不適切な表現があることがわかったので、文章を変更したのかもしれない。

2018年6月2日付の日本経済新聞に「東大のどこで? 続く推理、弥生式土器発見の地 今昔まち話」という記事が掲載されていて、「現在の東大硬式野球場の南側の、池が見える範囲を発見地と推測した。」とあった。

 

坪井正五郎(つぼい しょうごろう)
 1863年2月22日(文久3年1月5日)- 1913年(大正2年)5月26日
 後に東京帝大人類学初代教授

白井光太郎(しらい みつたろう
 1863年7月17日(文久3年6月2日)- 1932年(昭和7年)5月30日)
 植物病理学者・本草学者・菌類学者

有坂鉊蔵(ありさか しょうぞう)
 1868年2月4日(慶応4年1月11日)- 1941年(昭和16年)1月19日
 後に海軍造兵中将・東京帝大教授

サトウハチロー旧居跡

東京大学農学部の東外側(サトウハチロー旧居跡付近)を見てきた。

サトウハチロー旧居跡 弥生二丁目16

本名は佐藤八郎(1903~1973)詩人・童謡作家。
小説家佐藤紅緑の長男として、明治36年(1903)市谷薬王寺前町に生まれた。大正5年(1916)小日向台町小学校を卒業し、 早稲田中学校に入学した。この頃から詩を書きはじめ、16歳の時西条八十に師事し、詩を学んだ。大正10年(1921)「金の船」や「少年倶楽部」などに童謡を発表し、大正15年(1926)に詩集「爪色の雨」を発刊、詩人として歩みはじめた。
昭和12年(1937)上野桜木町から、向ヶ岡弥生町に移った。 週1回の詩の勉強会“木曜会”が開かれ「木曜手帳」が刊行されたのも、この地である。
昭和52年(1977)自宅の一階を改装して記念館が開館され、原稿や愛用品が展示されたが、記念館は平成8年(1996)岩手県北上市に移った。
庭の一隅に、童謡「ちいさい秋みつけた」にうたわれた"はぜの木”があったが、平成13年 (2001)10月礫川公園内(春日1-15)に移植された。
郷土愛をはぐくむ文化財
文京区教育委員会 平成15年3月

 

跡地は個人宅になっていた。

 

③根津小学校の校庭裏の崖上とはどのあたりだろうか?

地図だと異人坂付近だ。

異人坂

文京区弥生2-13 北側
坂上の地に、明治時代東京大学のお雇い外国人教師の官舎があった。ここに住む外国人は、この坂を通り、不忍池や上野公園を散策した。当時は、外国人が珍しかったことも手伝って、誰いうとなく、外国人が多く上り下りした坂なので、異人坂と呼ぶようになった。
外国人の中には、有名なベルツ(ドイツ人)がいた。明治9年(1876)ベルツは東京医学校の教師として来日し、日本の医学の発展に貢献した。 ベルツは不忍池を愛し、日本の自然を愛した。
異人坂を下りきった東側に、明治25年(1892) 高林レンズ工場が建てられた。今の2丁目13番付近の地である。その経営者は朝倉松五郎で日本のレンズ工業の生みの親である。

郷土愛をはぐくむ文化財
文京区教育委員会 平成9年3月

 

この写真だと坂の左側だったらしいが、何の痕跡も見当たらない。

 

異人坂の上の欄干のプレートに「浅野侯爵家」とあった。

昭和六年二月工事峻成

浅野侯爵家建設

工事監督  青木清太郎 
工事請負人 篠原丑蔵

 

東京大学浅野地区の名称の由来になった浅野家の貴重な痕跡だ。

旧町名案内「向ヶ丘弥生町」

江戸時代は、御三家水戸藩中屋敷であった。明治5年、町家ができて向ヶ丘弥生町と名づけられた。
 町名は、水戸家9代斉昭(なりあき)が屋敷内に建てた歌碑からとられた。
 「文政十余り一とせといふ年のやよいの十日・・・名にしおふ春に向ふが岡なれば  世にたぐひなきはなの影かな」
 明治17年、ここの貝塚から発見された土器は、町名をとり弥生式土器命名された。

エピローグ

弥生式土器」を発見したのは有坂鉊蔵氏であるが、1889年(明治22年坪井正五郎氏が『東洋学芸雑誌』上に報告したそうだ。
坪井氏の報告には、その発見地である向ヶ岡貝塚の位置について「僅に一筋の往来を隔てたる大学の北隣、即ち旧向ヶ岡射的場の西の原、根津に臨んだ崖際」とあるだけで、正確な位置は明かにしていなかったとのこと。
発見者の有坂氏自身が向ヶ岡貝塚について記録を残したのは、発見から40年もたった1923年(大正12年)のことで「根津の町を眼下に見る丘」、「陸軍の射的場があってその西北の方」、「上野の森や不忍池を望んでいる」と、こちらも正確な位置を記載していなかったようだ。

この第一発見者の有坂鉊蔵氏が嘘をついたため、発見場所を特定することができないという事態を招いたというようなことを書いたものもあり、発見場所の特定はこのまま謎のままになるのだろうか?