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岩槻城・城下町の地名の標柱を探す

城下町岩槻散策案内

戦国時代から江戸時代にかけて、岩槻城の城下町や日光御成道の宿場として都市形成が進んだ岩槻。 その当時、岩槻城内では「本丸」「三の丸」「新曲輪」などの名称が付けられ、城下の武士が住む地区(武家地)の通り名は「小路」、庶民の住む地区(町家)は「町」と呼ばれていました。
そうした地名や城下町、宿場としての景観は、一九七〇年代以降、 急速に失われてしまいましたが、地域の通称や入り組んだ街路などの形で、今でもそこかしこにその面影をとどめています。それらは、岩槻城や城下町の一面を伝え、岩槻の豊かな歴史的環境を形作る、大切な歴史文化遺産です。

※上の図は、岩槻城・城下町の主要な地名、通り名を刻んだ標柱と、岩槻城と城下町の様子を紹介する説明板の設置位置を紹介したものです。

 

平成元年、岩槻市教育委員会によって「城のまちの標柱」として“城下町の旧跡名称”の標柱が24箇所(本丸、三の丸、大手口、広小路/渋江小路、新小路、江戸小路、天神小路、裏小路、諏訪小路、新曲輪、新正寺曲輪、新曲輪町、林道町、富士宿町、元浅間町、横町、新町、市宿町、久保宿町、大工町、丹過町、渋江町、田中町、出口町)に設置された。

 

ここに書かれている地名、通り名を刻んだ標柱をすべて探すことにした。

 

訪問日 2023年5月1、2、4日

 

地道な探索を続けた結果、すべての標柱を発見することができたのだが、今回は地名を紹介することしよう。

市宿町

岩槻城下九町のひとつ。城下の西の出入口加倉口から久保宿町に至る町。日光御成道の両側に広がる町で、上・中・下宿に分かれる。 毎月一・六の付く日に市が開かれたことからこの名がある。

新町

岩槻城下九町のひとつ。市宿町の南に位置する。東は横町、西は弥勒寺門前の小路まで。江戸時代のはじめ頃に新たに開かれた町であことから、新町と名付けられた。

横町

岩槻城下九町のひとつ。市宿・久保宿両町の境から横町口までの町。中央を日光御成道下道が縦断し、街並みはその両側に広がる。

久保宿町

岩槻城下九町のひとつ。市宿町から渋江町に至る町。日光御成道の両側に広がる町で、上・中・下宿・大工町・旦過町に分かれる。往昔は「窪宿町」とも書かれ、戦国時代には六斎市が開かれたという。

渋江町

岩槻城下九町のひとつ。渋江ロと田中町の間に位置する。中央を日光御成道が貫き、街並みはその両側に広がる。この付近は中世に浜江郷と呼ばれ、町名はここに由来する。

田中町

岩槻城下九町のひとつ。渋江町の北側にあり、町の北側には城下町への出入口があり、田中口と呼ばれた。日光御成道の両側に街並みが広がる。

富士宿町

岩槻城下九町のひとつ。大構の外に位置し、諏訪小路口門の南に広がる。戦国時代には六斎市が開かれたこともある、町内に富士浅間神社があり、町名はここに由来する。

林道町・六番町

岩槻城下九町のひとつ。横町の南方、岩槻城大構外に広がる。江戸時代には杉並町・六番町・元浅間町が属した。諏訪小路口から西に延びる道を六番町といい、狭義には、この両側に広がる町を林道町という。 

新曲輪町

岩槻城下九町のひとつ。富士宿町の東にある町。岩槻城の曲輪のひとつ新曲輪南にあることからこの名があるという。新曲輪橋のたもとに河岸があり、米の津出しが行われていた。

大工町

久保宿町の北に広がる町。久保宿町に属し、久保宿五か町の一つに数えられる。大工のほか職人が多く住んだことが町名の由来。町内には、職人の信仰を集めた聖徳太子堂があった。

 

大工町の話

 この通りは、江戸時代には「大工町」と云われ、道の両側に家が建ち並んでいました、徳川幕府の初代岩槻城 主高力清長 公の手により岩槻城下の町造りが始まり(西暦一六〇一)慶長六年)その後阿部氏に引き継がれ岩槻九町が完成しました。
 この九町の一つが久保宿町です。久保宿町の内に“大工町” “丹過町”と云う路地があり、大工町は主に岩槻城の増改築を行った、大工さんが住んでいたので大工町と称していました。
 その後、時代は下り岩槻町は明治二十二年の条例により“十八”の区を設け大工町葉第七区に位置づけられていました。各区には区長が置かれ、区長は区内に関する町長の事務を誉職として補助していました。
 現在は“大工町通り”と称していますが大工職を職業としているのは、亀谷工務店一軒のみであり寂しい限りとなっている。

出口町

岩城城大溝の外、日光御成道沿いに広がる町で、田中口より元荒川田中橋までをいう。本来田中町に属するが、江戸時代の終わり頃から大溝内と区別されるようになった。

丹過町

久保宿町の中ほどから北へ延びる原市道の両側に広がる町。江戸時代には久保宿町に属し「旦過町」とも書かれた。町の北端は旦過口を隔てて城下町の外に通じる。

 

浅間町と杉並町の標柱は岩槻郷土資料館の庭に置かれていた。

浅間町

林道町の前に広がる町。江戸時代は林道町に属した。人家が三六軒あったことから「三六軒町」と呼ばれたこともある。町の南端は越谷道と日光御成道下道の分岐点に当たる。

杉並町

江戸時代、林道町に属した町。横町口より南東に続き、六番町に至る。町の北側には藩士の組屋敷(一番町~六番町)があった。

岩槻区役所にある観光経済室にここに置かれている理由を確認したのだが、管轄はさいたま市文化財保護課とのことで、確認できなかった。