歩・探・見・感

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ノスタルジック、レトロ、ディープそしてマイナーな世界へようこそ

田町町会絵図と旧町名案内「田町」

菊坂下交差点付近を歩いていたら、掲示板に面白いものを発見した。

 

発見日  2023年5月11、18日

発見場所 東京都文京区本郷四丁目

号外 田町会報 令和5年5月
昨今のレトロブームに乗っかって、昭和30年代後半の田町町会の様子を再現してみようと「田町版・三丁目の夕日プロジェクト」を立ち上げました。
昭和36年の、東京都住宅案内図帳をもとに当時の家々を書き出し、38年の航空写真と照らし合わせていきましたが、資料が不鮮明で判読が難しく、当時からお住まいだった人たちへの聞き取り調査によりようやく完成しました。
調査にご協力いただき資料を提供してくれた町会の皆様には、心より御礼申し上げます。完成した地図は完全なものではありません。年代により入れ替わりがあるため、聞き取った皆さんの記憶に残っている情景を最優先しました。
皆さんからのお話を聞くうち、朧げだった記憶が少しずつ鮮明によみがえり、話が盛り上がって、思い出話に花が咲きました。 「あそこには双子の兄弟がいた」とか、「買った小鳥がすぐに死んだ」とか、「トラヤの水槽に落ちて助けられた」とか、進駐軍の連込みホテルだったグリーンホテルの工事現場で、トロッコに乗って遊んでは追いかけられて崖を飛び降りて逃げた話など、37年生まれの私は、見てはいないはずの風景までもが生き生きと再現されてくるのを経験できました。
私が遊んでいた生の記憶では、都電が廃止されたあとの白山通りの地下鉄工事と共同溝の工事現場へもぐりこみ、工夫たちの飲んだコーラ瓶を集めては、町内のお菓子屋「つるや」にもっていって小遣い稼ぎをしたことなど40年代に入ってからになりますが、それぞれの皆さんの思い出と重ね合わせてお楽しみください。
コンビニは勿論まだなく、スーパーがようやくでき始めたころの町では、生鮮三品はもちろん料理屋、食堂、バー、本屋、靴屋、写真館、電気屋、お菓子屋・・・娯楽施設も映画館やビリヤードにパチンコ屋があり、 あらゆる業種が町内にそろっていて、電車通りを渡れば柳町商店街があり、セイフーチェーン(現・ダイエー)まで行けば生活のほとんどすべてが賄えました。6の日にはえんま様の縁日が立ち並び、本当ににぎやかな界隈だったのです。
やがて、昭和が終わり平成へ移ると、ビルへの建て替えが進み、マンションも増え、現在の町並みへと近づいていきました。
住む人やお店屋さんが変わっても、いつまでも賑やかで、そこに暮らす人々の息づかいが感じられる町であり続けてほしいと願っています。
こちらのイラストマップをご希望の方は、いとうや商店までお越しください。 一部百円でお分けします。

三丁目の夕日プロジェクト責任者 田町町会広報部長 ○○○○

 

田町町会絵図

右側

左側

今はどのくらい残っているのだろう。

 

旧町名案内

俗にいう丸山に属し、古くは菊坂田町と称した。この辺一帯は昔、田畑と菊畑であったので町名とした。
寛永5年(1628) 御中間方拝領地となり、元禄9年(1696) 頃町屋が開かれた。
明治2年、小石川片町、丸山田町を併せ、 同5年隣接の旧武家地や寺地を併せて、本郷田町として菊坂を省いた。さらに、明治44年、本郷をとり田町とした。
「正直安兵衛とて神は此頭に宿り給ふべき大薬罐額ぎはぴかぴかとして、これを自印に田町より菊坂あたりへかけて、茄子大根の御用をもつとめける・・・・」(「大つごもり」)
隣町の丸福山町に住んだ樋口一葉は、作品の中で峰の伯父を描写している。

俗に丸山に属し、古くは菊坂田町とした。むかし、田畑と菊畑であったので町名とした。
寛永5年(1628) 御中間方拝領地となり、元禄9年(1696) ころ町屋が開かれた。
明治2年、小石川片町、丸山田町を併せ、同5年、隣接の旧武家地や寺地を併せ、本郷田町とした。 明治44年本郷をとり田町とした。