歩・探・見・感

歩・探・見・感

ノスタルジック、レトロ、ディープそしてマイナーな世界へようこそ

謄写版発祥の地に記されていた旧町名「東京神田區鍛冶町大通三番地」

神田駅付近を探索していると、会社名が書かれているプレートの下に輝いている銅板をを発見した。

発見日  2024年3月9日

発見場所 東京都千代田区鍛冶町二丁目

過去に書かれた方の記事を見るとビル名が変わっていた。

もとは、堀井謄写堂株式会社(後のホリイ株式会社)の旧本社ビルだったらしい。

謄写版発祥の地

専売
  謄写版販売元 〈堀〉謄写堂
特許  
             電話本局千〇八十四番

明治27年(西暦1894年)堀井新治郎父子が我が国
初の簡易印刷機を発明し「謄写版」と命名, 発売と同
時に鍛冶町の此の地に謄写堂を創業した。

1900年代の堀井謄写堂店舗。《正面入口左手に細長い板看板がかかり、それには陸軍御用謄写堂とある。ウインドーには商品が飾られ、その上の3つの額は、おそらく展示会や博覧会、品評会などで得た賞状でもあろうか。店に入ると昔の呉服屋のような上がりかまちで、店員が客に接しており、街上のレールの上の乗物は、当時の花形であった鉄道馬車というやつで、上野から新橋あたりまで通っていたもの。人力車がいせいよくかけめぐり、黒いまんじゅう笠の郵便夫が走り、天秤棒をかついだ物売りが叫んでいるという神田鍛冶町大通3番地の風景である。》(若山八十氏『孔版文献物語』)

昔は"ガリ版"と呼ばれていた。

なつかしい。

小学生か中学生だったかはっきり覚えていないが、使ったことがある。

いつ頃まで使われていたのだろう。

調べてみよう。

ガリ版印刷は1960年あたりを境に徐々に下降線をたどる。
1987年(昭和62年)、堀井謄写堂は謄写版の生産を中止した。
さらに1989年(平成元年)、四国謄写堂は原紙の生産を中止。
戦後に謄写版印刷業として創業した理想科学工業が、1977年に「プリントゴッコ」(感熱式多色簡易印刷器)を発売。しかし、このプリントゴッコも1987年をピークに、以後はパソコンやプリンターの普及に押され、2008年には販売が終了となった。

コピー機やパソコンの普及により今はガリ版を知らない人の方が多くなったが、今でもガリ版の生業社もあるらしく、ガリ版の味わいを大切に「通信」づくりを続けている人や美術孔版画の道を極めようとする人もいるらしい。

このプレートを設置したホリイ株式会社は2002年9月に倒産していた。

謄写版についてはここまでにしておこう。

ここから本題だ。

このプレートに「東京神田區鍛冶町大通三番地」と彫られている。

「東京神田區鍛冶町大通三番地」が正しいと思ったが、「鍛冶町大通」という旧町名が見当たらない。

現存している町名「鍛冶町」の歴史を調べてみよう。

1889年現在の町名は「神田鍛冶町」だった。

関東大震災後の復興と区画整理にともない神田区の町名地番整理が実施されたが、旧神田鍛冶町は1933年(昭和8年)に周辺の町を編入して神田鍛冶町一・二・三丁目に再編された。

1947年(昭和22年)の区画整理で、黒門町(くろもんちょう)、上白壁町(かみしらかべちょう)、下白壁町(しもしらかべちょう)、紺屋町(こんやちょう)、松田町(まつだちょう)、鍋町(なべちょう)、塗師町(ぬしちょう)、新石町(しんこくちょう)、竪大工町(たてだいくちょう)、鍛冶町二丁目が統合され、「神田鍛冶町二丁目」となった。

1974年(昭和49年)1月1日の住居表示実施により、一・二丁目は「神田」の冠称を廃して「鍛冶町一丁目・二丁目」となった。一方、三丁目は住居表示未実施で、現在も「神田鍛冶町」と称する。

この中には出てこない。

更に調べていたら、明治時代の浅田飴の広告に「東京神田鍛冶町大通」と書かれているのを見つけた。

また、明治?年8月5日に発行された第66号「東京小間物商報」がヒットした。探してみたのだが、ページ数が多くてどこに書かれているか見つからなかったのだけれど、どこかに「神田區鍛冶町大通」と書かれているようだ。

「鍛冶町大通橋」という"橋"はあったようだ。

この橋のことを調べていると非文字資料研究センターの元研究員北原糸子氏が書かれた「私家版・関東震災復興誌―神奈川県農工銀行と堀井謄写版堂」という資料が見つかった。
その中で堀井謄写堂の震災復興誌「大正十二癸亥年大震火災記」という書籍の内容について書かれていた。
書かれている内容はとても興味深いものだった。
しかし、本題から離れるので、鍛冶町大通について書かれたところだけにとどめる。
そこに書かれていた鍛冶町大通は「日本橋から須田町交差点を通り、万世橋へ抜ける大通り」だったとのこと。

今の国道17号、中央通りになるのだろうか。

もうここまでくると「鍛冶町大通」は旧町名だと思う方はいないだろう。

1995年発行の志村章子著「ガリ版文化を歩く」には、「謄写版の発明者である堀井新治郎父子は、神田鍛冶町三番地に店をかまえた。」と書かれている。他にも「神田鍛冶町」と書かれているものがあった。

ということで、「鍛冶町大通」は旧町名ではないことがわかった。

堀井謄写堂が「鍛冶町大通」に面して店を構えていたからこう書いたのだろう。

やはり「神田鍛冶町」が正しいのだ。

でも、「神田區」とあるので、当時製作されたプレートではないが、当ブログでは旧町名扱いとしておこう。