歩・探・見・感

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田園調布駅舎とバラ

何回か来たことがある(旧町名探索が主な目的)田園調布駅だが、今回はたまたま西口広場にバラが咲いている季節に訪問することができた。

 

訪問日  2023年5月30日

訪問場所 東京都大田区田園調布三丁目

 

周辺案内

 

田園調布商店街マップ

 

西口ロータリーの中央には噴水があり、噴水の周囲にバラが咲いていた。



 

開業当初の旧田園調布駅

1923年(大正12年)3月11日
 目黒蒲田電鉄の開通(目黒~丸子(現・沼部)間)と同時に開業。開業当時の駅名は「調布駅」であった。
 駅名は当時の村名、調布村から採られた。

1926年(大正15年)1月1日
 駅名を「田園調布駅」に改称。

1990年(平成2年)9月4日
 田園調布駅地下化のため、旧駅舎解体。

2000年(平成12年)1月15日
 旧駅舎を田園調布駅のシンボルとして復元。

田園調布駅舎設計者は神宮外苑の絵画館や上高地帝国ホテル、伊豆の川奈ホテルなどを設計した矢部金太郎。
特徴的な屋根の形はマンサード・ルーフという欧州中世紀の民家がモデルになっている。

 

田園調布の由来

この広場を中心とする凡そ八十万平米の地域は、明治文化の先駆者渋沢栄一翁が、我国将来の国民生活の改善の為に、当時漸く英米に現われ始めた「田園都市」に着目して都会と田園との長所を兼ねた模範的住宅を実現させようと念願して、既にあらゆる公的関係から退かれた後であるにも関らず自ら老躯を運んで親しく土地を選定された所であります。
 その目的の為に大正七年、田園都市株式会社が創設されて、翁の理想に共感する人々に土地の分譲を行ない、我国最初の近代的大計画都市が実現しました。そして居住者による社団法人が生まれました。
 この都市全体を一つの公園のように明るく美しいものにする為、建築その他に関し色々な申し合せを固く守り殊に道路との境界には一切土塀板塀などを設けず、花壇か生け垣の低いものの程度にすることなどを、厳格に実行しました。その協力の結果、この明るい住宅地と楽しい散策地が生まれたのであります。
 大正十一年には同社の姉妹会社として目黒蒲田電鉄が創立され大正二年三月、当時荏原郡調布村であった当地に調布という駅が設けられ間もなく田園調布という駅名に改められました。その後この地区が東京市編入された際、町名改正がおこなせれて当都市のみならず周辺の町村をもひろく含めて田園調布と呼ぶこととなりました。その折当会の地域は頭初の田園都市の約三分の二となり、他の三分の一は、世田谷区玉川田園調布となりました。
 ここに明るく住む方々も、ここを来し訪れる方々も、渋沢翁が永くここに栄えてゆくようにこの田園都市を愛護して下さるようお願い致します。
 昭和三十四年秋
 社団法人 田園調布会 会長 矢野一郎

 

田園調布並木散歩は、自由が丘駅から田園調布を経て、目蒲線沼部駅までの約3.3kmのみちのりです。大正末期に目蒲線東横線の開通に よって開かれた緑多い閑静な住宅街をめぐります。途中にある多摩川台公園は、遠く富士箱根の山並みを望む景勝地です。

田園調布
この町は大正年間に経済界の長老渋沢栄一翁らが、閑静で住むに便利な「田園都市」をと計画して作られた町です。駅西口から伸びる三本の放射状の銀杏並木を、 四つの同心円で区切った街区に、緑の多い瀟洒な家並みが連らなっています。こうしたすばらしい景観は「町中が一つの公園のように」と理想の町づくりに励んできた住民の英知と努力の賜物です。秩序ある美しい町並みは今も なお維持されており「都市景観百選」の一つに選ばれています。
町の名は田園都市の「田園」と旧村名「調布」からとられたもので、当時の町並みは駅を中心に、現在の3丁目全域と1~5丁目の一部でした。