歩・探・見・感

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御茶ノ水ソラシティで明治・大正時代の歴史遺産に触れる③ ― 軍艦山 ニコライ堂 ―

軍艦山 ニコライ堂

軍艦山

大正12年(1923)の関東大震災では神田駿河台周辺においても火災により多くの建物が消失しました。震災後の復興区画整理事業により、本郷通りと聖橋が整備され、本郷通り幽霊坂の交差部分には、石垣による鋭角の角地ができました。石垣をよく見ると、幽霊坂側と本郷通り側では、石種や石組みが異なるのがわかります。この辺りは「軍艦山」と呼ばれ、特に昭和10年代には子ども達の遊び場となっていました。軍艦山先端の石垣とクスノキは往時のまま残され、岩崎彌之助邸擁壁の煉瓦を再利用したこの歴史案内板や広場のベンチと共に、神田駿河台の歴史ある風景を継承しています。

 

幽霊坂側の石垣

 

本郷通り側の石垣

 

ベンチ


ニコライ堂

正式名称は「日本ハリストス正教会教団・東京復活大聖堂」ですが、ロシアから日本に正教会を電動した聖ニコライに因んで、ニコライ堂と呼ばれています。ロシア人建築家のシチュールポフの基本設計を基に、イギリス人のコンドルの実施設計・監督により、明治24年(1891)に完成しました。大きなドーム屋根を持つビザンチンリバイバル様式の建物と、高く響く鐘の音が印象的です。関東大震災でドーム屋根が崩壊しましたが、岡田信一郎 の設計により昭和4年(1929)に修復復興しました。このため屋根と鐘楼は当初の形とは異なっています。昭和37年(1962)、国の重要文化財に指定されました。


軍艦山から見たニコライ堂クスノキ

 

ニコライ堂クスノキと石垣

 

幽霊坂

江戸時代には火消役の屋敷があり、そこへ上る坂道でした。江戸時代の初め頃は緩やかなカーブで、埃坂あるいは光感寺坂とも呼ばれていました。のちに直線状に整備されて、紅梅坂へとつながっていましたが、大正時代の区画整理本郷通りができたために二つに分かれた形となりました。 このあたりは木々が繁っていて昼間でも薄暗かったことから、幽霊坂の名が付けられています。