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浦和駅開業140周年記念イベント ~ 伊勢丹浦和店編 ② ~

今回は「開業140周年 浦和駅と列車の歴史」⑤~⑩までを紹介することにしよう。

開業140周年 浦和駅と列車の歴史⑤
東北、 高崎線電車化と駅改築

京浜東北線の電車運転が始まったのちも、東北本線高崎線は電化されていなかったことから蒸気機関車による運転が続いていましたが、戦後1952(昭和27)年に高崎線の電化が完成、また1958(同33)年には東北本線の電化が完成し、それぞれ電車運転が開始されました。しかし引き続き浦和駅は通過する列車が大多数でした。この間も利用者数は増加を続け、1945 (同20)年の乗降客数は1日平均49,477人だったものが、1958年には80,931人とついに80,000人を突破します。同年、西口駅舎を改築したほか、翌1958(同34年)には貨物の取扱を廃止し、増加するお客さまに対応していきました。
記録がある範囲で、浦和駅に従事する職員数は1948(同23)年の82名が最大でしたが、貨物取扱廃止で63名になっています。
とはいうものの、この時代は鉄道の輸送力が不足していたことから、東京近郊では長距離を結ぶ路線バスが鉄道の補完として運行されており、西口駅前には数多くの路線バスが発着する写真も残されています。

1963(昭和38)年の浦和駅西口。

駅前ロータリーに都営バスの姿が写っています。1950(同25)年から1966(同41)年まで東京駅北口~浦和駅という路線があり、東京都交通局と国際バスが運行していました。国道17号線をひたすら走り県庁前から駅に至る路線でした

1964(同39)年の西口から県庁通り商店街を見た写真。

国際興業バスの中には懐かしいボンネットバスの姿も見えます。奥に止まっている国際興業バスの行き先表示には池袋一浦和駅という表示が出されています。また、東武バス浦和駅発上尾車庫行が止まっていますが、かつては浦和駅~熊谷駅という長大路線も運行されていました

開業140周年 浦和駅と列車の歴史⑥

1964(昭和39)年の浦和駅ホーム。

ホーム上には駅員もいるほか、制服姿の学生の姿も多くみられ、浦和駅らしい風景。
ホーム上には売店もあり多くの商品が売られています。屋根から吊り下げられた時刻表には「改正の電車時刻表は運転事務室脇に掲出しています」と注意書きが張られています。同年は10月に東海道新幹線開業に伴う大規模なダイヤ改正がありましたが、人々の服装などから3月に行われた小規模なダイヤ改正直前の撮影ではないかと推測されます

 

開業140周年 浦和駅と列車の歴史⑦


1964(昭和39)年の浦和駅小荷物室。宅配便サービスが始まる前、鉄道による小荷物輸送サービスを行っていました。 多くの荷物を駅員が整理しています

同じく1964(昭和39)年に撮影されたホーム信号扱い所の様子。係員が操作し信号やポイントを切り替える装置の盤面には、1面のホームと上り線下り線、そして大宮寄りに折り返し電車が使用する上下線間の引き上げ線(Y線)、また上野寄りには下り線から上り線への渡り線も示されていますが、当時は京浜東北線の折り返しは南浦和駅で行われており、使用頻度は低かったものと推測されます


深夜の浦和駅西口に国鉄自動車局のトラックがつけられ、新聞の取り卸しが行われています。かつてから荷物電車による新聞輸送が行われていましたが、列車本数の増加などで首都圏では「荷電代行」として国鉄のトラックで輸送が広くなされていました

同じく1964(昭和39)年の貨物信号扱い所。浦和駅の信号扱いはこの翌年1965年に廃止されました

 

1964(昭和39)年秋に撮影された浦和駅ホーム。

まだホームは1面で、奥に京浜東北線の電車が到着しています。構内にはガード(架道橋)があり、道路が下をくぐっていますが現在もこの位置に鳩ケ谷架道橋があります。道路は拡幅されていますが、西口から線路脇を下る道路の形状には今も面影があります

 

開業140周年 浦和駅と列車の歴史⑧

かつて浦和駅の大宮よりにあったハッ道越ヶ谷踏切を写した貴重な写真。

1963(昭和43)年の3複線化で踏切は廃止され、ほぼ同じ位置にハッ道越ヶ谷架道橋がかけられ立体交差になりました。踏切警手が白旗を掲げ安全を列車に伝えています。貨物線を通過するのは宇都宮機関区所属のEF57形電気機関車

1965(昭和40)年の東口(左)と西口(右)。

どちらの駅前も構内タクシーが多く停車しています。西口駅舎の奥には小荷物取扱所の看板が小さく見えます。東口駅舎を写した写真の裏書には「狭い東口改札」と書かれており、東口の設備の不足は長年課題になっていたようです

開業140周年 浦和駅と列車の歴史➈

1964(昭和39)年、浦和駅西口改札口の朝の混雑の様子。改札口には多くの駅員の姿が見えます。西口では左側通行で、ラッシュ時はロープで仕切って導線が交錯しないよう対応した様子がわかります。左写真の改札は黒板の「伝言板」も写っています

1965(昭和40)年の東口改札を入ったところにあった看板。7時50分から8時20分頃で混雑するためこの時間を避けて、と時差通勤を呼び掛けています。現在の浦和駅も概ねこの時間帯が通勤ラッシュのピークあることに変わりはありません。看板下の広告ポスターには国鉄の「東北観光号」のポスターなどと並び「夏期講習」と書かれた予備校のものも2枚掲出されていて、学校の多い浦和らしい広告と言えるでしょう

1965(昭和40)年の東口改札。

西口に比べはるかに規模が小さくこじんまりとしており、県庁所在地の駅改札には見え ない雰囲気。時刻表にはずらりと列車時刻が記されていますがこれは京浜東北線のもので、その欄外の備考欄に「渋川行16時36分、宇都宮行き17時01分」と書かれており、そ れ以外の高崎線東北本線は通過していたことが伺われます

1965(昭和40)年の西口改札。

前年の写真と比較すると、改札の係員が立つ「舟」が作りかえられています

 

開業140周年 浦和駅と列車の歴史⑩
国体を機に西口新築、3複線化完成

浦和駅の駅舎は1930(昭和5)年に東西の駅舎が新築されて以来、東西共に改装程度で使用されてきましたが、通勤通学の利用者が急増し、1961(同36)年には1日の平均乗降客数がついに10万人を突破し、混雑に拍車がかかりました。国鉄では「通勤五方面作戦」と呼ばれる第三次長期計画で首都圏の線増などを計画、東北本線京浜東北線東北本線の線路を分離し、三複線にする工事が始まります。これに合わせ浦和駅も西口駅舎を新築することになります。おりしも1967(同42)年に開催されることになった埼玉国体に合わせ工事が進められ、鉄筋2階建ての駅舎が完成しました。みどりの窓口が設置されたほか、2階には食堂も開店し、浦和駅県都にふさわしいスマートな駅舎で新たな時代を迎えました。
そして翌1968(同43)年には三複線化も完成、新設された貨物線は高架で浦和を通過し、従来の貨物線が列車線に転用され、ホームが新設されました。同時に赤羽~大宮間にあった24か所もの踏切が全廃され立体交差化も行われましたが、これは地元の多大な理解と協力があって実現したものでした。

1967(昭和42)年に完成した浦和駅西新駅舎。

2階建てで1階には改札やみどりの窓口、手小荷物扱い所などがありました。当初は2階にはスリット状のファサードが設置されていて、シンプルかつスマートな外観だったことがわかります

 

1971(昭和46)年撮影と思われる西口駅舎。「浦和駅八十八周年記念」の看板が2階に掲げられています

東口駅舎には大きな変化はないものの、地下道につながる部分の上屋が改築されており、左右非対称になり若干不格好になった印象もあります

 

(上)完成した後に撮影されたと思われる1枚で、2階には「埼玉国体 浦和駅落成」の看板が掲げられ 、さらに「祝 浦和駅舎落成」と書かれた塔も写っています