以前実施した小平市丸ポスト探索ツアー(個人的な一人ツアー)で訪問するのを忘れていた2つの丸ポストを見つけた達成感にひたっていた。
突然ポストが出てきたが、何だ?
小平市丸ポスト探索ツアーの報告はいずれするつもりだ。
「江戸東京たてもの園」に行きたかったのだが、常盤台写真場、奄美の高倉、植村邸、丸二商店が3月末まで修繕工事中のようなので、工事が終わったら訪問することにした。
帰途の駅、西国分寺駅に向かうまでの間に何かないかなと探索していたときに見つけたもの。
発見日 2022年3月24日
鈴木新田の開発に関わったのは貫井村(現小金井市)の名主、鈴木利左衛門重広である。
利左衛門は正徳2年(1712)から、度重なる開発願いを出しているが認められず、そうこうしているうちに資金が底をついてきた。
そこで上総国万石村(現千葉県君津市)の商人、野中屋善左衛門に開発場の三分の一を提供するなどの条件を基に資金の提供を仰ぐ。
享保7年(1722)、日本橋に新田開発をすすめる高札が掲げられると、享保9年(1724)、開発の許可が下り、ようやく開発に着手した。
享保10年(1725)に鈴木利左衛門重広は病死、その息子、利左衛門春昌が継いだ。
しかしながら、その利左衛門は享保9年から11年までの3年間、1年に4石8斗5升の役米が納められなかったことで開発場を取り上げられてしまう。
そのため、鈴木利左衛門の新田は野中新田に組み入れられることになるが、享保17年(1732)、六百町に及ぶ野中新田が、与右衛門、善左衛門、六左衛門、そして利左衛門の四名が名主役を仰せられ、このうち利左衛門分が鈴木新田を名乗ることとなった。
小平市の新田7つの内、小川新田、鈴木新田は見つけることができたが、残り5つ、大沼田新田、野中新田与右衛門組、野中新田善左衛門組、廻り田新田、小川村は見つけることができるだろうか?
「小平町地理図」によると、小川村が町の38%を占めていた。以下、鈴木新田は17%、小川新田は16%と続き、最少は廻り田新田の2%である。
小川村は広いので、残っている可能性はあるかもしれない。
またまだ挑戦は続く。
御幸町にある名門ゴルフ場「小金井カントリー倶楽部」のコースが歩道から見え、コブシの木かハクモクレンの木かわからないが白い花が満開だった。