大日坂を登っていく。
右側の説明板
「・・・坂のなかばに大日の堂あればかくよべり」(改選江戸志)。
この「大日堂」とは寛文年中(1661~73)に創建された天台宗覚王山妙足院の大日堂のことである。
坂名はこのことに由来するが、別名「八幡坂」については現在小日向神社に合祀されている田中八幡神社があったことによる。この一円は寺町の感のする所である。
左側の説明板
文字が薄くなっていて読めないが、下記のことが書かれているようだ。
坂の名の由来は、坂の途中に大日堂があったことから里俗に呼ばれるようになったものであろう。
堂のあるこの寺は天台宗で、覚王山妙足院と号し、開祖は浩善尼上人(紀州家の奥女)で、堂廟の創立は寛文2年(1662)といわれている。
その後 何度か火災にあったので、堂は現在に至っていないが、坂の北の方の道造りは、妙足院で施工したと伝えられている。
小日向の名の由来については、古く鶴高日向という人の領地だったが絶家した後、「古日向があと」といっていたものが、いつか「こひなた」と呼ばれるようになったのであろうと、「御府内備考」では述べている。
まだ、大日坂について書かれているものがあった。
彫像の土台の真鍮板に彫られているもの
この坂は昔、坂の上にあった田村八幡宮にちなんで八幡坂と呼ばれていました。後に八幡宮が音羽町八丁目の裏通りに移転してからは、坂下の妙足院の大日堂にちなみ、大日坂と呼ばれるようになりました。
大日堂は、大日如来を祭り江戸時代から小日向の名所として知られてきました。明治時代に入ると、毎月八の日の縁日には、水道通りに沢山の露店が並び賑わっていました。また、坂下の神田川(通称江戸川)は、明治末まで土手に植えられた桜並木が有名でした。
文京区小日向、探索したところもあるが探索したこともないところもあるかもしれない。
ということで、当初予定していなかったが、少し探索してみることにした。
以前撮ったかもしれないが、旧町名案内があったので近寄る。
そうすると数メートル先を歩いていた小学生らしき女の子が急に駆け出した。
日傘を差したおじさんが近づいていくので、不審者と思われたのかもしれない。
と、たまにこんなことがある。
そんな怪しまれる格好はしていないつもりであるが、そう思われてしまうのかなあ。
ショックであるが、気を落としてはいられない。
前を向いていこう。
近くに「小日向台町」が付く学校などがあった。
旧町名の記事を書くことがあるかもしれないので、プレート等の写真を撮る。
これも、平日だと怪しまれる可能性があるが、この日は土曜日だったので、誰もいなくよかった。
特に平日の下校時間は、お迎えの父兄や子供たちがいるので、このような写真を撮るのはためらってしまう。
小日向台町児童館
小日向台町幼稚園
小日向台町小学校
小学校はいろいろな種類のものがあった。
探索しているうちに旧町名の表札を発見した。
①文京区小日向台町1の28
発見日 2023年10月14日
発見場所 東京都文京区小日向二丁目
胸が高まる。胸が高鳴る。
これは違和感がある表現らしいので、言い換えよう。
心がうき立つ、かな?
アガル、か?
まあ、そのような気持ちになった。
記憶にない。
新発見か?(あてにならない記憶だ、この後、別な旧町名を発見するのだが、これも新発見だと喜んでいたら、既に発見済のものであった。)
家に帰って調べてみたが、当然のことながら目撃情報があったものだった。
ガッカリ。
でも自分としては新たに発見したものだった。
今まで見落としていたようだ。
これは、見落としていたものだが、この付近は何度も探索したことがあるところなので、目撃情報がないと思われるのものが見つけられるはずがない、と思っていても、他の方が見落としていて、たまに見つかる場合があるので、あきらめないことが大事だ。
撮った写真を調べていたところ、随分前に撮った写真があった。
②文京区小日向台町一ノ六四
発見日 2021年3月6日
発見場所 東京都文京区小日向二丁目
見落としていたと思われるものが発見でき、探索し直してよかった!
記載されている文章の内容は同じだが、別なバージョンの旧町名案内があったので、載せておこう。
古くは小日向村の内で、鼠ヶ谷、小松原と称した。畑地であったが、いつの頃から町屋になったかはわからない。元禄のころ(1688 ~1704)まで小日向新町と称していたが、小日向台町と改めた。高台であったので台町としたのであろう。
明治2年、清巌寺前、八幡坂町を併せた。
同5年、旧幕府賄組屋敷および新屋敷と呼んだ土地を併せた。
明治14年、1丁目、2丁目、および3丁目に分けた。
八幡坂の東側には現在今宮神社(もと護国寺境内にあった)があるが、ここにあった田中八幡宮は、明治2年に、日輪寺境内の氷川神社とともに合併して、服部坂西側の小日向神社となった。