歩・探・見・感

歩・探・見・感

ノスタルジック、レトロ、ディープそしてマイナーな世界へようこそ

文京区小日向にある新渡戸稲造旧居跡がマンションになっていた

服部坂を上っていくと小日向神社の先に「新渡戸稲造旧居跡」があるとのことなので、立ち寄ってみることにした。



この地図は新渡戸稲造旧居跡の先にあったもの。



途中にマンション建設絶対反対ののぼりが建てられていた。


新渡戸稲造先生が泣いていた。



今はどういう状態になっているのだろう?

反対運動もむなしくマンションが建っていた。

この旧居跡は元関東財務局小日向台宿舎だったようだ。

まだ入居前のようだ。

第一種低層住専の高さ10mに4階建、総戸数66戸
・25~30㎡台 1K40戸
・41~45㎡台 1LDK26戸

台地の上だから坂が多く、通勤・通学は大変そう。

新渡戸稲造旧居跡

文京区小日向2-1-30付近

新渡戸稲造 文久2年(1862)~昭和8年(1933) 教育者 ・ 農学博士・法学博士
南部藩士の子として盛岡で生まれ、明治4年(1871)に上京した。明治10年札幌農学校第2期生として内村鑑三らと共に学んだ。同校卒業後、東京大学に学び、さらにアメリカやドイツに留学して農政経済学や農学統計学などを学んだ。
明治24年、メアリー夫人(アメリカ人)と結婚して帰国、札幌農学校で教えた。明治36年京都帝国大学教授、同39年第一高等学校長を経て、東京帝国大学教授、東京女子大学初代学長などを歴任した。また、拓殖大学の学監(学長)も務めた。その人格主義教育は、学生たちに深い影響を与えた。
日本と外国をつなぐ「太平洋の橋」になりたいと若い時から考え、わが国の思想や文化を西洋に、西洋のそれをわが国に紹介することに努めた。国際的にも広く活躍し、 大正9年(1920)には 国際連盟事務局次長となり、"連盟の良心”といわれた。昭和2年(1927)帰国の後、太平洋問題調査会理事長となった。 きびしい国際情勢のもと、平和を求めて各地の国際会議に出席するなか昭和8年にカナダで亡くなった。
当地は、明治37年から昭和8年まで住み、内外の訪問客を迎え、ニトベ・ハウスと呼ばれた旧居跡である。
令和5年1月
文京区教育委員会

令和5年1月となっているので、マンション建設とともに新しい説明板が建てられたのかもしれない。

以前のものは下記が書かれていたようだ。

新渡戸稲造(1862-1933)は、農学者、教育者、国際人。南部藩士の子として盛岡で生まれ、幼くして上京した。明治10年札幌農学校第2期生として内村鑑三らと共に学んだ。さらに、東京帝国大学に学び、またアメリカやドイツに留学して農政経済学や農学統計学などを学んだ。
明治24年、メアリー夫人(アメリカ人)と結婚して帰国、札幌農学校で教えた。後、京都帝大教授を経て、明治39年第一高等学校長となり、学生に深い影響を与えた。
その後東京帝国大学教授、東京女子大学初代学長となった。また、地元拓殖大学の学監(学長)も務めた。「太平洋の橋」になることを若い時から考え、国際的にも活躍し、わが国の思想や文化を西洋に、また西洋のそれをわが国に紹介することに努めた。大正9年には国際連盟事務局次長となり、”連盟の良心”といわれた。昭和2年帰国して、太平洋問題調査会理事長となり、きびしい国際情勢のなか平和を求めて国際会議に出席してカナダで亡くなった。ここは、明治37年から昭和8年まで住み、内外の訪問客を迎え、ニトベ・ハウスと呼ばれた旧居跡である。

昭和59年3月 〔文京区教育委員会

この大きな木(クスノキ?)は切り倒されずに残ったようだ。