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旧番地「目黒区三田」

随分前に撮ったものだが、旧番地のカテゴリーも作ったことだし、今回はこれを紹介することにしよう。

発見日  2021年1月19日

発見場所 東京都目黒区三田二丁目

ちょっと離れていたので、小さくなってしまった。

以前、下記の記事で目黒区と港区に存在する町名「三田」のことを簡単に書いた。

citywalk2020.hatenablog.com


調べてみたところ、それぞれの区のホームページに由来が書かれていた。

目黒の地名 三田(みた) 目黒区

「三田」は、区内で一、二を争う古い歴史をもつ地名。その由来は、遠く大化の改新以前にまでさかのぼるといわれている。
十世紀初めに編さんされた「倭名類聚抄」によると、古代、武蔵国荏原郡に「御田郷みたごう」と呼ばれる土地があり、その名は、大化の改新以前の天皇の直轄領地「屯田みた」に由来するものというのが定説。明治半ばまで旧目黒六か村の一つであった三田村の地は、古くは、港区の三田とともに、この「御田郷みたごう」に属していたと推定され、その後、十五世紀ごろまでに、港区三田に当たる地域が「三田村」、目黒区三田一帯が「銀しろがね三田郷」と、二つの地域に分かれ、さらに江戸時代以降、「銀しろがね三田郷」が港区の白金村と目黒区の三田村とに分かれていったものとみられている。
なお、こうした経緯から、港区三田と目黒の三田は、ともに今日まで、現在港区三田にある春日神社の氏子という親しい関係にある。
しかし、江戸時代以降の両者の発展には大きな相違がみられる。港区の三田から白金辺りまでは町奉行支配地となって開けた一方、目黒の三田村は、その大半が幕領や大名・旗本の別邸などで占められたこともあるが、文化・文政の江戸繁盛期でさえ戸数十戸余り。三田用水から引いた滝が落ちる名園など、景勝の地としてのみ知られてきた。
明治以降、山手線の敷設やビール工場の建設など、開発の波に見舞われながらも、鉄道が掘割の中を通り、地勢が急なことから、近年まで、なお昔の面影を残してきた。しかし、平成6年10月に恵比寿ガーデンプレイスが開業し、この地域も大きく様変りした。


港区公式ホームページ/三田(みた)

荏原郡(港区、千代田区の一部と品川・大田・目黒・世田谷区)の御田郷は、古くは、港区三田~白金、目黒区三田までを含む地域で、荏原郡9 郷の一つに数えられました。「三田」は区内で最も古い地名の一つで、承平5年(935)頃の文献に「武蔵国荏原郡郷“御田”」と紹介されています。カナが普及する前の時代の書物ですが、「美田」と、漢字で漢字に読み方が記してあったそうです。皇室に献上する米をつくる貴重な田だったので「御田」とする説などがあります。箕田、箕多、弥陀、美田などと表記された時代もありました。
明治4年(1871)、肥前島原藩下屋敷跡に「慶應義塾」が移転(現・二丁目=芝地区内)してきたことにより、下宿屋・食堂・書店・文具店などが増え、武家町から学生街へと町風が一変しました。
明治11年(1878)年、芝区に所属。昭和42年(1967)、芝新門前町、芝新門前河岸、芝赤羽町、芝三田豊岡町、芝新広尾町、芝伊皿子町などが合併し、現在の「三田」となりました。
一~三丁目は芝地区に、四・五丁目が高輪地区に属しています。

港区には旧町名由来板がある。