自分が持っている千葉県の地図では、柏市のこの辺りは3万分の1のものしかなく、あまりあてにならないので、地図を頼らず、北柏駅から大体の方向へ適当に歩いたが何とかたどり着くことができた。
スマホの地図を使えばいいのだろうけれど、野生の勘が働かない時しか使わないことにしている。
その野生の勘が働かないときは、とんでもないところに行ってしまい、随分遠回りしてしまうこともある。しかし、今回はそれほど厳しいスケジュールを立てていなかったので、狂っても問題ない。
訪問日 2024年1月8日
高射砲第二連隊営門の説明板にあった兵舎略図
今回はこの図に書かれている営門、歩哨所と照空予習室を訪問した。
実際には先に照空予習室を訪問したのだが、都合上、営門と歩哨所から紹介することにする。
旧営門と歩哨所
現在、旧営門は高野台児童遊園の出入口のひとつとなっている。
裏側
右側の門の正面
左側の門の正面
左側面
歩哨所
説明板
ここにある門柱は、高射砲第二連隊の正門として連隊の東端(現在の布施入口交差点付近)に設置されていたものです。戦後、しばらくの間残されていましたが道路拡張に伴い約60m西方のここ高野台公園に移設し保存されたものです。
高射砲連隊は、帝都東京や軍事拠点を守るため高射砲部隊の教育を行う場として設置されました。昭和11(1935)年に市川市国府台に高射砲第二連隊が開設され、高射砲連隊と共に防空をつかさどる航空連隊が近くになかったことから、新しく計画された軍用地として翌昭和13年11月に当時の富勢村根戸字高野台に移転してきました。同年に柏飛行場(現柏の葉地区)も完成し、高射砲連隊と共に帝都東京の防空体制が整いました。戦争中は、照空予習室と呼ばれる施設で遠方の航空機や高い構造物の位置を測定する訓練を行い、営庭では鉄塔に航空機の模型を吊るして防空訓練を行っていました。
照空予習室は、柏市と加古川市(兵庫県)の2棟が現存しており、測量機器を屋上に上げるための起重機装置の支柱が残っているのは柏市の1棟のみです。
その後、連隊は同16年に主力が東京に移転し、同18年までは残留部隊が駐在し、その後この敷地を東部14部隊(東側)と東部83部隊(西側)が利用しました。
令和5年3月 柏市教育委員会
以前の説明板の内容は、以下のようだったようである。
ここにある門柱は東方約60mの所にあったものを移設したものです。
高射砲第二連隊は、昭和13年に市川市国府台から富勢村根戸字高野台に移転してきました。隊は昭和16年に主力が東京方面に移り、同18年に廃されるまで続き、その後東部十四部隊と東部八十三部隊が進駐しました。
敷地は現在、市営住宅、富勢中学校、公的施設として利用されています。
柏市はかつて「軍都柏」と呼ばれ、十余二、花野井、大室、高田、若紫には軍事施設があり、緑ヶ丘には軍需工場がありました。
これらのものは姿を変えてしまい、当時の面影をみることは困難になっています。
本市に軍事施設があった残り少ない証拠として、また、二度と再び戦争の惨禍を繰り返すことのないように祈念して、営門を移設して永く保存し、「恒久平和」を求め続けるものです。
以前のものは照空予習室についての記載はなかった。
高野台児童遊園の西側の門
照空予習室
東京を守るために置かれた高射砲第二連隊の主力は3年で都内に移転し、その後は軍馬の餌を保管する「馬糧庫(ばりょうこ)」になった。
その後、1967~2009年に消防署の分署などが入居し、2階部分を増築して、地元の商店会と町会が集会室として使っていた。市西部消防署根戸分署が移転したため、市は老朽化を理由に取り壊す方針を示した。文化課が調査した結果、貴重な建物と分かり、解体を免れていた。
正面
1938年頃に建造されたとされ、鉄筋コンクリート造りで間口約8メートル、奥行き約16メートル、高さ約10メートルあり、吹き抜けになっていて3階建てに相当する。
床面積約128平方メートル。
左側面
屋上は距離測定の訓練所になっていて、直接、屋上にアクセスできるよう外側に階段が設けられていた。
裏側
起重機装置の支柱
外壁に機材を昇降するクレーン支柱が残っているのは全国で唯一のもの。
2023年11月24日、国の登録有形文化財(建造物)に登録するよう、文化審議会が文部科学相に答申した。
公園裏の利根土地改良区にあった遺構?らしきもの。