訪問日ごとの探索記録も記事にする予定だが、時間がかかりそうなので、個別の記事を優先することにした。
しかし、そのうち記憶が薄れてしまうのが心配だ。
前回訪問した時もその時は記事にしようと思っていたが、時の流れとともにそのまま放置してしてしまっているものがいくつかありそうだ。
今回は書きたいと思っている記事をいくつ書けるだろうか?
京都駅を降りて、まず、この町名表示板を発見することがこの日の第一目的だった。
京都駅から一番近くにあるからだ。
ストリートビューで予習してきたので、すぐ発見することができた。
発見日 2022年11月11日
藤家旅館に設置されている。
この旅館は通称"京の旅館通り"と言われている石畳が続く通り沿いにある。
京都駅北口より徒歩約5分のところだ。
猫女将リリーがお出迎え(藤家旅館ホームページより)
玄関が閉まると、繋がれていた紐がはずされ、お客様のお部屋までご挨拶に・・・。 鈴の音がしたら、お部屋の戸を開けてあげてください。
藤家旅館が創業したのは、不明のようだが、元々は、愛知県に住んでいる方々が泊まる東本願寺の宿坊だったようだ。
終戦後、この旅館街に移って旅館として営業するようになったそうだ。
ここに旅館を建てる際には、先代の方が役所関係だったこともあり、今は無き京都ホテル別館の建物を解体する際に、その資材の一部をもらいうけ、建物の所々に取り込んでいるそうだ。
京の旅館通り
1602年(慶長7年)東本願寺の造営に伴い門前に宿坊などが立ち並ぶようになる。
1877年(明治10年)京都駅の開設に伴い、ホテルや旅館が営業を開始し、旅館街を形成。
この旅館に設置されている仁丹町名表示板
2021年に設置された復活バージョンだ。
ネットの2012年11月頃の情報によると「文字が剥がれており、特に、町名の部分は文字の原型を留めていない。」「納品時からすでに一部欠けていた。」とある。
これは再設置されたものなのかな?
調べてみたところ、藤家旅館のホームページに「新たに取り付けていただきました。」とあるので、再設置されたもののようだ。
2021年3月のストリートビューを見ると確かに文字がかすれていた。
設置場所も違っていた。以前は建物の左側に設置されていた。
不明門通(あけずのもんどおり)
松原通上ルにある因幡薬師堂(平等寺)門前から、南は京都駅北の塩小路通まで至る約1.3kmの路。
京都駅から見ると駅前旅館が集まる、通称「京の旅館通り」から北へ延びる通り
実際の文字読みである「あけずのもんどおり」と呼ばれることは稀で、地元では一般的に「あけずどおり」と呼ばれている。
1171(承安元)年、因幡薬師を「平等寺」と命名した高倉天皇が境内の南側に移り住んだことから、天皇に遠慮して南門を開けるのを控えたのが通り名の由来と伝わっている。
『京都坊目誌』では、「松原の北に因幡堂平等寺あり。往昔 正門此街に面す。常に鎖して開かず。街を開くに當り名とす。一に藥師突抜町とも稱す。」と記してある。
七条下る(しちじょうさがる)
七条通を南に行くという意味だ。
京言葉ではひちじょうどおり、ひっちょうどおりと読むらしい。
また、一条(いちじょう)、四条(しじょう)との間違いを避けるため、市バスの停留所名では「ななじょう」の読みを使用している。
東塩小路町(ひがししおこうじちょう)
1879年(明治12年)4月10日
京都府に上京区と下京区が設置された。
郡区町村編制法の京都府での施行により行政区画としての葛野郡が発足。
同年11月1日
葛野郡中堂寺村・八条村・西九条村・東塩小路村の各一部を下京区に編入
1889年(明治22年)4月1日
町村制の施行により、東塩小路村、朱雀村、中堂寺村(現・京都市下京区)、西九条村、八条村(現・京都市下京区、南区)から大内村が成立。
1902年(明治35年)2月1日
葛野郡大内村大字東塩小路及び大字西九条を下京区に編入。
東三町
町内区域をさらに細分化した組(班)のようなものらしい。