歩・探・見・感

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ノスタルジック、レトロ、ディープそしてマイナーな世界へようこそ

煙草小賣所の琺瑯看板 in たばこと塩の博物館

以前、たばこと塩の博物館に展示されている煙草小賣所の琺瑯看板を紹介したことがあった。
citywalk2020.hatenablog.com


「たばこ屋大百科」が開催されていることを知り、見学してきた。

気が付くと2時間くらい滞在していた。

写真は200枚くらい撮っただろうか。

色々なものに夢中になってしまった。

たばこの煙は大嫌いだが、ここに展示されているものはお気に入りのものがいくつかある。

その中のひとつ、煙草小賣所の琺瑯看板が展示されていた。

以前紹介したものと同じ煙草小賣人の看板があった。

千葉県印旛郡八街町八街へ

「八街へ」は町名である。この経緯は前の記事に書いていたので省略。

八街市」を訪問してみたいと思ったが、さいたま市からだと約2時間と結構かかることが分かり、そう簡単には行けそうもない。
何か余程の大物がある情報でもあれは頑張って行ってみようと思うのだが、調べてみることにしよう。

こちらの看板の方が劣化している。

2枚並べてみよう。

違いは右側には専売局指定の文字が無い、左側の住所の番地の下に「ノ二三」とある。

劣化具合からしてみても右側の方が古そうだ。

東京府豊島郡板橋町大字下板橋

この見たことがない旧町名だけでばぇーだ。

あっ、そうだ!「板橋町下板橋」の表札は紹介していないけれど、見たことがあること思い出した。

1889年(明治22年)4月1日
市制町村制により、下板橋宿は金井窪村、中丸村および池袋村飛地上板橋飛地滝野川村の一部と合併され板橋町となる。

1932年(昭和7年)10月1日
東京市編入により、板橋町は上板橋村、志村、赤塚村、練馬町、上練馬村、中新井村、石神井村、大泉村と合併され、板橋区となる。

なのでこの看板は1932年以前に製作された可能性がある。

以前紹介したものと並べてみよう。

字体が異なっているが同じ時期頃に製作されたもののように見える。

東京都内で残っているこの時代のものというと品川区南品川にある下記のものくらいか。



これも専売局指定の文字が無いから上で紹介したもの(右側)と同世代かも。

そういえば品川区は最近ご無沙汰しているような気がするが、どうだっただろう?

調べてみたら、去年2023年は品川駅を探索をしたが、それ以外は訪問していなかった。

訪問した気になっていたが、2022年9月1日が最後であった。

ストリートビューで見ると2023年9月が最新のもので、この時点ではまだ無事だった。

この看板が設置されている建物自体もユニークなもの。

気が付くと知らぬ間に解体されていたなんてことはよくあることだ。

まだ探索できていないところもあるかもしれないし、何かの機会に行って、現存を確認してくることにしよう。

看板に関する書類等が展示されていたのは、とても興味深かった。

専売時代の看板

1909年(明治42) ごろから、各地の販売官署で小売人への指示事項が定められ、そのなかで看板と標札の設置が義務づけられた。
看板の規定は地域によって多少の差異があるが、通りからすぐにわかる軒看板(軒下に吊す看板)のかたちをとること、地色を赤とすることはおおむね共通している。赤い看板も、日本のたばこ屋を象徴するアイテムといえるだろう。
一方表記については、戦前はばらつきがあり「煙草」「たばこ」「タバコ」、変体 仮名を使ったもの、英語を併記したものなど、多種多様であった。戦後になると、左横書きの「たばこ」に統一されていったが、戦前の看板をそのまま使う店も少なくなかった。
材質は、当初は木製ペンキ塗だったが、大正期ごろからホーロー製が登場した。戦後の看板には、他社の広告を入れたものも作られた。
標札は、小売人の住所氏名を記したもので、店頭の柱や壁に掲示された。戦前は縦書きのものが多かったが、戦後は横書きのものも作られた。

煙草小売人指示事項(庶1778号)

専売局松山製造所長
1910年(明治43)

煙草小売人の看板・標札の見本が図示されている。

煙草看板掲出の件 販発第1527号


1914年(大正3)
浅草専売支局長から管内の元売捌人・小売人組合に宛てた通達を、埼葛久喜煙草小売人組合の代表委員から組合員に知らせた文書。
ホ一口一看板「(鉄板エナメル焼」と記されている)への切替を促している。浅草専売支局管内の小売人に販売する看板は、日本エナメル株式会社が一手に引き受けているとある。

日本エナメル株式会社を調べてみると1912年5月創業とあり、「タカラスタンダード」の前身の会社であった。

煙草・塩看板

東京琺瑯株式会社

専売局指定看板のパンフレット。同社はたばこ製造業者だった岡本市蔵が、1919年(大正8年)に設立した東京・深川の会社。

○煙草、鹽、看板類ヲ信用シテ御注文ニナレルノハ東京琺瑯ニ限リマス

○イツマデモ品質が變ラズ常ニ美シイ光澤ヲ保チ總テノ点二優秀ナルハ弊社製品ノ誇リデアリマス

○整ッタ設備完全ナル裝置ニヨリ大量ニ生産サル、弊社製品ハ嚴選統一サレタ完成品デアリマス

○ドウシテモ人ノ目ヲ引カズニ置カナイ刺戟的ナ三六ノ大看板ヲ御揚揚サル、事ニ於テ貴店ノ販賣高ノ急増進ヲ御請合致シマス

○何型ニヨラズ常ニ製品ノ在庫豊富ノタメ御注文次第即時御送リガ出來マス

煙草小賣人の住所と氏名は1枚1枚手書きだろうから、ここに書かれているようにはいかなかっただろう。

東京琺瑯株式会社について調べてみたが、オークションなどで販売されている看板の写真は出てくるが、会社は現存していないようだ。

有田町歴史民俗資料館・館報「皿山No.117 春」
肥前陶磁史考』に有田工業学校(分校時代)の第1回陶画科卒業生で、後年イタリアに留学し「我邦にて始めて琺瑯看板を製す、後岡本姓に改め東京市会議員」でもあった石橋瀧雄
のことが書かれている。
大正15年(1926)から昭和3年(1928)まで本所区向島押上町231番地に岡本瀧雄という名前で市会議員をしており琺瑯製造業を営んでいたらしい。

この方が本邦初の琺瑯看板を手がけた方らしいが、同じ岡本姓なので何かつながりがあるのだろうか?

日本琺瑯工業会のホームページに「琺瑯の歴史」というのがあるが、琺瑯看板というジャンルが違うからかこの方の名前は見当たらない。

岡本琺瑯で調べてみると下記の記録の中に名前が出ていた。

琺瑯鐵器に關する第1囘座談會速記録
主催
日本學術振興會學術部第34小(硝子及耐火物)委員會第3特殊委員會
大日本窯業協曾
日本琺瑯鐵器工業組合聯合會
日 時  昭和16年4月21日 自午前9時30分 至午後2時
會 場  大阪市東區本町2丁目 染工聯會館

岡本市蔵の名前を検索するといくつか出てくるが、たばこ関連だと「第三五八五號紙卷煙草製造機特許無効ノ件」という明治時代の裁判例データベースの中に出てくる。同一人物なのかもしれないので読もうと試みるが明治時代の文章なので全く頭に入ってこない。

あ~、調べ出すときりがなくなるので、この辺にしておこう。