2024年2月24日、この日は大和田駅から東大宮駅の間を探索。
大和田駅周辺に大きなお宅があったので、探索していたところ、駐車場の先に何かの説明板が見えた。
近くに寄ってみる。
大宮市指定天然記念物
大和田の五葉松(東)
指定 昭和三六年十二月九日
樹高 五・七〇m 目どおり 一・四m
大和田銀座を通る人々が振り返るというこの松は、通りから見通せる戸山家の門 脇に通えられています。葉が淡い緑色なので一般に霜降り五葉といわれ、主幹はほぼ真っ直ぐにのび、四方に枝を張り、樹勢はよく均整のとれた樹形をしています。五葉松は 一般に観賞用の庭木として栽培され、入念に人の手が加えられますが、戸山家の五葉松も母家から最も美しく観賞できるようにその樹姿が整えられていま す。戦時中は人手不足のため、家人が見よう見まねで五葉松の手入れをしたとのことです。以前は商店街の通りに面した場所に成育していましたが、母家の建て替えにともない現在の場所に移植されました。なお移植に際し、五葉松を保護する根回に六年の歳月を要しました。このように丹念に育てられた松は、今では私たちに松独特の美しさを見せ、晩春には素朴ではあるが紫色の雌花と米粒が集まったような茶色の雄花をつけます。
平成三年三月
大宮市教育委員会
これが大和田の五葉松(東)
樹齢は約550年らしい。
当主が建てたと思われる石碑。
達筆過ぎて読めない文字が多い。
東があるなら西もあるのかと探していると同じ通りのすぐ近くのお宅の中に説明板が見えた。
門の手前に柵があり入れない。
説明板の一部しか撮れない。
何と書かれているのかキニナルので、調べてみたが、これについて書かれているものは見つからなかった。
門の外から見えないので、道路から見える松を撮ってみた。
これだと思っていたのだが、帰ってから調べてみたところ、大和田の五葉松(西)は枯死していたことがわかった。
令和5年4月27日(木)に開催された教育委員会会議の議事録に、
さいたま市見沼区大和田2丁目に所在する市指定天然記念物「大和田の五葉松(西)」について、枯死により文化財の価値を失ったため、さいたま市文化財保護条例第40条の規定により、指定を解除するものです。
なお、さいたま市文化財保護審議会からも「指定解除すべき」との答申をいただいております。
昭和34年7月11日指定。
大和田の五葉松(西)は、同じころ植えられたと思われる大和田の五葉松(東)とともに、主幹が大きく屈折し、四方に広がる枝ぶりが貴重であると判断されたことから文化財に指定されていました。
しかし、昨年11月、マツノザイセンチュウ(通称マツクイムシ)の被害により枯死が確認され、周囲の松への被害の拡大を防止する観点から、今年2月に緊急措置として、伐採、燻蒸の措置を行いました。
と書かれていた。
でも、まだ下記のページには文化財として載っていた。
この後、結構探索したのだが、あまり成果がなく、東大宮駅へ向かっていた。
すると桜の花が見えた。
沈んだ気持ちを切り換えてお花見♥♡。
ここは氷川社という神社だった。
氷川社 御由緒
御縁起(歴史)
当社の創建は『風土記稿』に当時の砂村の隣村堀崎村の項に「氷川社当村及び砂村の鎮守なり、大聖寺の持」と当社についての記載が見える。しかし、氏子は「氷川社は古くから砂村の現在地に鎮まっている」と伝えていることから、往時は堀崎村の飛地となっていたことが考えられる。あるいは別当の大聖寺が堀崎村にあったことが一因したものであろうか。大聖寺は艮障山寿命院と号する天台宗の寺院であった。その開山と氷川社の創建は明らかではないが、慶長十七年(一六一二)八月の「堀崎村御検地水帳」にある大正寺は同寺のことと思われる。同寺は神仏分離を経た明治五年に廃寺となった。
当社は明治六年四月に村社に列し、同九年に本殿を改築した。明治二十二年に今羽村・西本郷村・土呂村・大和田村・堀崎村・島村・砂村の七か村が合併し、新たに大砂土村が設置されるとこの村の惣鎮守となった。明治四十年二月に拝殿を建立し、同年九月には、旧砂村の無格社稲荷社(三社)・同八雲社、旧島村の村社熊野社、無格社第六天社、旧堀崎村の無格社稲荷社(二社)・同熊野社などを合祀した。
御祭神と御神徳
・素盞嗚尊・・・武運長久、厄除け、商売繁盛
御祭日
・歳旦祭(一月一日)・祈念祭(二月十七日)・春の大祭(四月三日)
・大祓(六月三十日)・秋の大祭(十月三日)・新嘗祭(十一月二十三日)
樹名板はなく、帰ってから調べたところ、桜の種類は河津桜だった。
中央に見える巨樹は天然記念物 砂氷川社のモミ
指定日 平成30年3月28日
社殿の裏側
神楽殿裏
神社の敷地内
もう少しすれば満開かな。