歩・探・見・感

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玉川上水に架かっていた旭橋の親柱と石樋 in 都立新宿高校

2022年に創立百周年を迎えた新宿高校、その校内に気になるものが見えた。

訪問日 2024年2月1日



何だ?

中に入れないので、柵の中にスマホを入れて写真を撮った。

旭橋?

何でこんなところに。

説明板らしいものの裏面が見えた。

表面を見たい。

しかし、この日は先を急いでいたので、この写真を撮っただけで、ここを後にした。

2024年2月3日、横を通った。

そうすると自分より年を取っていると思われるオジサンが校内で石樋の前にいるのが見えた。

えっ、入れるのか?

きっと断りを入れれば入れるのだろう。

右方向に歩き出す。

道沿いを歩いていく。

校門がない。

どこまで歩けばいいんだ?

10分以上歩いただろうか?

もと来た道に戻りそうだ。

あった!

何と、出発地点から左に少し行けば、すぐだった。

/(^o^)\ナンテコッタイ。

校門を開ける生徒がいた。

「本校にご来校の方は必ず1階事務所にお寄りください。」という看板があったので、門を開けて入る。

事務所と思われるところに行くが、土曜日だからかカーテンが架けられていた。

誰もいない。

このまま、ただ出ていくのも何だと思ってしまい。校内から写真を撮らせてもらい、早々に立ち去る。



期待していた説明板だが、かなり文字が薄くなっていて読めない。

拡大したらなんとか読めるので、頑張って書き写してみよう。

1603年(慶長八年)に、徳川幕府が江戸に開かれて以来、人口の急激な増加が見られ市街の発展につれて飲料水の不足をきたした。そこで1652年(承応元年)玉川上水開設の計画が立案され、翌年より町人庄右衛門・清右衛門兄弟によって着工された。上水路は一年足らずで開削・通水に成功し、1654年(承応3年)に竣工した。玉川上水は、多摩郡羽村(現、羽村市)の堰(せき)から多摩川の水を取り入れ、四谷大木戸(現、新宿区四谷4丁目交差点)まで約43キロの開削水路である。大木戸の脇には水番屋(新宿区内藤町87番地)がおかれ、水量の調節などがなされた。その後、上水は地下にもぐり、石樋や木樋で城下に配分された。
上水は地図にあるように新宿高校の北側の甲州街道沿いに流れていて、蛍や桜の名所であった。現在、新宿高校に保管されている石樋は、甲州街道と青梅街道の分かれ道である追分一帯の雨水など下水を新宿御苑内の池へ落とすために上水の上に架設されたものである。もとは木樋であったが。1795年(寛政7年)に長さ1間(約3.6m)幅、3尺5寸(約1m)、高さ3尺(約90㎝)の石樋にした。上水の水質保護のために機能した石樋から、下水は新宿御苑に沿って掘られた下水溝を通って、千駄ヶ谷方面へ流れていく。しかし大雨や豪雨の時は排水が間に合わず、土地の低い天龍寺の裏あたりから出水し、旭町(現、新宿4丁目)一帯は水びたしになった。明治年間に流行したコレラなど伝染病予防のために、近代水道の建設がのぞまれ、明治30年代初頭には淀橋上水工場や鉄管水道の敷設が完了し、1899年(明治32年)には上水による市内への給水を廃止した。1925年(大正14年)からこの付近の上水路を暗渠にする工事がおこなわれ、昭和初年ころにこの石樋も撤去されたと考えられる。

「旭橋」について書かれていないが、「旭橋」は人が渡る橋ではなく、玉川上水に架かっていたこの石樋のことのようだ。

地図もほとんど見えなくなっていた。

何が書かれているのかさっぱりわからない。

ところで、新宿高校の偏差値は68だって。

都内では上位の方のようだ。

でも、高校生がこういうものに興味を持つのはまれであろう。

新しくして、歩道側に向けてくれればうれしいのだが。