御門通りと花椿通りの間に「金春通り」呼ばれている長さ約130mほどの通りがある。
「金春」と書いて《こんぱる》と読む珍しい名称だ。
あの「銀座 久兵衛」がある通りだった。
メニューを見る。
まあ、とてもお高いのね。
当然だ。
自分とは縁のない店。たとえ入店できたとしても、緊張して、味などワカラナイだろう。
訪問日 2023年7月1、3、10日
訪問場所 東京都中央区銀座八丁目
今回の探索の目的はこれを見るためだった。
何かを調べているときに、銀座でもまだ気が付いていないものがあることが分かった。たぶん何回も通ったことがある道のはずだが、その時は、これに意識が向かなかったのだろう。
「BAR保志 Mons REX」が入っているこの建物ではない。
銀座金春通り煉瓦遺構の碑
銀座は日本に二箇所しか建設されなかったきわめて貴重な煉瓦街の一つです。もう一つは丸の内の煉瓦街でした。しかし今日では残されたこうした遺構から明治時代の煉瓦街を窺い知るほかはありません。
設計者はトーマス・ジェイムス・ウォートルスというイギリス人です。フランス積みで、明治五年から十年にかけて当時の国家予算の四%弱を費やし、延べ一万メートル余もあったといわれています。
この煉瓦は銀座八丁目八番地(旧金春屋敷地内)で発掘されたものでゆかりの金春通りに記念碑として保存される事になりました。
下の絵は、明治初期のガス灯や張り板、提灯など当時の金春通り煉瓦街を偲ばせる古い写真を元に銅板に彫金したもので、見る角度により昼夜の陰影が出るよう微妙な細工が施されております。
銅板画制作 第十一代 銅昭
平成五年九月吉日
銀座金春通会建之
見る角度により昼夜の陰影が出るよう微妙な細工が施されている彫金。
右側面
左側面
しかし、事前調査の時は気が付かなかったものがあった。
もともと、それほど詳細に調べたわけではなかった。
短い通りだが、実際に訪れてみると、見所がいくつかあることがわかった。
碑の右に江戸時代の木樋(水道管)があった。
この木樋は、1967年(昭和42年)に中央区八丁堀のビル建築現場地下約3mより出土した物の一部で、歴史研究をしていたオートクチュール「ノーブルパール」現社長の父が譲り受けた後、この店先に展示したとのこと。
2023年7月10日再訪したら、金色のプレートになっていた。
もしかしたら、営業中はこのプレートが置かれているのかもしれない。
江戸時代の上水道管(上水木樋)
18世紀初頭、ロンドンやパリの人口が50万人前後であったと言いますから、人口約100 万人の江戸は、当時最大規模の都市でありました。
17世紀中頃の江戸には、既に飲用を主とした上水道が埋設されておりました。その水道網は江戸中に張り巡らされ、配管総延長は150kmに及んだそうです。
神田上水・玉川上水・青山上水・三田上水・亀有上水・千川上水の六上水があり、この木管は昭和42年(1967年)東京都中央区八丁堀2丁目30-15のビル建築現場の地下約3mから出土した物の一部です。この辺りは玉川上水の末端にあたり、(承応二年(1653年)から同三年以降に建設されたもの。)武家屋敷の後、河岸になった地域です。
更に進むと、こんなところに銭湯があった。
ビックリポン!
知らなかったあ。
「金春湯(こんぱるゆ)」
創業が江戸時代末期の文久3(1863)年で150年以上の歴史を持つ。江戸時代から存続している都内の銭湯2軒の内の1軒だそうだ。残り1軒は、江戸川区にある「あけぼの湯」(1773年開業)。台東区にも「蛇骨湯(じゃこつゆ)」があったのだが、2019年5月31日に閉店してしまったそうだ。跡地は14階建てのマンションが建設中。
1957年(昭和32年)に現在の建物に改築し、ビル内に銭湯を構える現在の形になった。改築当時はビル内に銭湯を構えることは珍しいことで、また、周囲に高い建物がなく、このビルが一番高い建物だったそうだ。
1968年(昭和43年)の時点では銀座だけでも8軒の銭湯が存在していたが、現在では1丁目の公設「銀座湯」と、ここ8丁目の「金春湯」を残すのみとなった。
2023年7月14日までウエハラヨシハル氏による「七夕祭り」が展示されていた。
七つ道具
仙台の七夕は伊道政公の代からいている七夕祭りです
七夕飾りには七つ道具という飾りがあります
紙衣 ・・・災難の厄よけ 身代わり
吹き流し・・・技芸の上達を願う
千羽鶏 ・・・家内安全・健康長寿を祈願
巾着 ・・・商売繁盛
投あみ ・・・大漁豊作を祈願
くずかご・・・清潔と倹約の心を育てる
短冊 ・・・学問や書道の上達を祈願
先祖供養・人の幸せを考えて暮らしていたのがわかります
注釈
「わ板」、「ぬ板」はウエハラヨシハルが1998年、横浜の銭湯「末広湯」で考案し、 発表したオリジナル作品です。よく間違えられますが、江戸から続く文化ではありません。
夏の訪れを感じる七夕の夜に夜空を見上げながら、星に祈りを捧げみてはいかがでしょう
天の川や織姫の織り糸に見立てたそうめんを食べ、願い事が天までとどきますように
シャッターの中
中にも七夕飾りがあった。
後日(7月3日)、開店後、中に入ってみた。
わ板
金春屋敷跡
所在地 中央区銀座八-六~八地域
江戸時代、幕府直属の能役者として知行・配当米・扶持を与えられていた家柄に、金春(こんぱる)・観世(かんぜ)・宝生(ほうしょう)・金剛(こんごう)の四家がありました。能楽は室町時代に足利幕府の保護奨励を受けて発達し、安土桃山時代には熱心な愛好者であった豊臣秀吉の保護を受け大いに興隆しました。
とくに、金春家は秀吉の強力な保護を受け、能楽の筆頭として召しかかえられました。江戸幕府も秀吉の方針を踏襲して能楽を保護し、金春・観世・宝生・金剛の四座を幕府の儀礼に深く関わる式楽と定めました。
元禄六年(一六九三)頃の江戸市中の状況を記した「国花万葉記」によると、金春大夫は山王町(現在の銀座)・観世大夫は弓町(現在の銀座)・宝生大夫は中橋大鋸町(現在の京橋)・金剛大夫は滝山町(現在の銀座)に屋敷を拝領していたとされています。
金春家は、寛永四年(一六二七)に屋敷を拝領したといわれ、寛永九年(一六三二)の江戸図『武州豊嶋郡江戸庄図』には「金春七郎」の名を確認することができ、現在の銀座八丁目六・七・八番地全体を占めていたように図示されています。後に、この屋敷は麹町善国寺寺谷(千代田区麹町三・四丁目)に移りましたが、跡地には芸者が集り花街として発展していき「金春芸者」といわれるようになりました。金春の名は、「金春湯」・「金春通り」などとして、今もこの地に残っています。
平成十五年三月
中央区教育委員会
金春小路
ビルの間に路地があった。こんなところにあるんだ。入らないわけにはいかない。
入口
知らないところに入り込むのは多少勇気がいる。
家と家の間は慣れているのだが、今回はビルの隙間、勝手が違う。
恐る恐る突き当りまで進んでみる。
入口を見たところ。
こんな路地が存在していること自体、とても興味深い。
どういう構造になっているのだ?
突き当りから左を見たところ。
奥に光が見えるので、道なのだろうが、先を進む勇気はなかった。
スマホでこの写真を見たらドキッとしてしまった。
人がいるように見えてしまったのだ。
違った。
この写真ではそのように全然見えないが、スマホの写真では光の加減でそう見えてしまった。
2023年7月10日再訪した時、金春小路の手前にあるビルの谷間に路地があったので、入ってみた。
路地の中央辺りに、左右の路地があった。
右側を見たところ。
先日撮った上の写真で見た出口と思われるところだった。
左側を見たところ。
肉眼で見たところ、出口らしい光は見えるが、途中にいろいろ障害物があって進めそうもない感じだ。
出口と思われるところ。
こちらからは暗くて様子が分からない。
この魔境に入る勇気はなかった。