2024年2月27日、超強風が吹く中、探索を決行した。
強風で電車が遅れていたが、遅れていた電車にタイミングよく乗れ、待ち時間も少なかったかったため、予定の所要時間より早く宮原駅に着いた。
宮原駅を降り、強風の中、探索を開始する。
砂埃が舞い、吹き飛ばされそうになりながら、探索を続けるが、めぼしい成果を得ることができなかった。
暴風にくじけて日進駅から帰ろうと思ったが、時間があるので、大宮駅まで歩くことにした。
折角なので、レールウェイガーデンプロムナードを再訪することにした。
下記の記事でD51を紹介したことがあるが、
今日は夕日が当たっていたからか、違ったものに見えた。
夕日に照らされているD51187。
レンガに映る影がいい
後方から見ると、運転席辺りが輝いて見える。
運転席
反対側
動輪も美しい
D51187号蒸気機関車
D51形蒸気機関車は昭和11年(1936)に誕生した優秀な大形貨物列車用蒸気機関車で昭和20年(1945)までに1,115両製作されましたが一つの形式で両数と製造所の多い点では異例のものです。
大宮工場においては昭和13年(1938) 4月から昭和17年(1942)3月までに、当時の社会的な要請に対応して31両製作しましたが、このD51187号機は、そのうちの第1両目の由緒ある機関車で、記念物として先輩の偉業をたたえるとともに職員の21世紀の国鉄へ向っての自覚を具現する象徴としてこの地に長く保存することになりました。D51187号機は昭和13年(1938) 4月12日に着工し同年9月8日に完成したもので、当時の工場職員が文字どおり寝食を忘れ、心血を注いで製作に当り、その構成部分のすべてを工場独自の力で、まったくの素材から製作したもので歴史的にも技術の大宮工場の真価を現わしたものです。
当初は東京鉄道局田端海道山陽本線などの 配属され山手及び常線の貨物用主力機として大活躍しましたその後は大 「戦後の荒のなかで粗意な石炭と不足する補修資材に悩まされながら 輸送にあたりその大任を果してきました昭和30年11月9日東海道全線電化を 1年後に控えて米子鉄道局浜 間に転属になりましたが山陰本線の動力近代化に伴い昭和46年 6月1日の時のDLにゆずり返しました新製以来の走行を知は1866822いて実に地球と月の距離の 約5日にまにして33年のあいたい味でありました。この機開車のおもな性能は次のとおりです。
ロケットビル
離れた所から撮ったことはあるのだが、近くから撮ったことはなかったので、撮ってきた。
夕方だったので、輝いて見えた。
正面
右斜め
右側面
裏側
少し離れた所から
バブル経済期の平成元年に、地元建設会社の自社ビルとして建てられ、美術館も入っていた。
当時の建設会社の社長が宇宙に興味があったことから、ロケットの形に。先端の小型のロケットの中には階段があり、畳半畳ほどのスペースが存在する。
上の方の階の間取りは以下のようになっているようだ。
現在の入居者