何の記事だか忘れてしまったが、その中に斎藤月岑の名前を書いた。
書いた記事に追加するつもりだったのだが、どの記事だか分からなくなってしまったので、単独で記事にすることにした。
斎藤月岑のことを調べていると千代田区に「斎藤月岑居宅跡」があることがわかった。
そのうちに訪問してみようと思っていたのだが、しばらく忘れていた。
ある日、地図を見ていたら、そういえば、と思い出し、訪問することにした。
アナログ派なので、地図に行く場所を付箋で印をつけているのだが、貼ってある場所が間違っていたらしい。
ストリートビューでも所在地を確認したはずなのに、見つけるのに30分くらいかかってしまった。
どんまい!
発見日 2024年5月7日(再訪日2024年5月11日)
発見場所 東京千代田区神田司町2-8
それは外堀通り沿いにあった。
石碑の前に自転車が止まっていた。
邪魔だなあと思いながら写真を撮る。
ではない、視界を邪魔するもの、特にルール違反のものは問答無用でどかす。
すぐ隣にも2台止まっていた。
ここは自転車置き場じゃないぞ!
どかした後、当然元には戻さない。
人通りが結構多く、歩道も広くないので、通行人の邪魔にならないように写真を撮るのに少々苦労した。
斎藤月岑は文化元年(一八〇四)にこの地(神田司町二丁目)で生まれた。斎藤家は代々神田の雉子町・三河町三丁目・同裏町・三河町四丁目・同裏町・四軒町の六ヶ町を支配する名主であった。十五歳にして家督を継ぎ、九代目・市左衛門と称し、実名を幸成といった。祖父幸雄・父幸孝が手がけた大著『江戸名所図会』を完成させたほか、『東都歳事記』『武江年表』など、今日、江戸の町人文化を研究する上で欠くことのできない多くの著作を残している。江戸を代表する文化人であり、神田の誇りである。明治十一年(一八七八)三月六日永眠。行年七十五歳。累代の墓所は東上野の法善寺にある。
平成十六年十一月吉日 月岑翁生誕二百年を記念して
斎藤月岑顕彰碑を建設する会
-この碑に使用した石は、旧江戸城外堀跡の石垣の一部である。
横から見たところ。
町名由来板:神田司町二丁目
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かつてこの界隈(かいわい)は、おもに商人や職人が住む町として発展してきました。
江戸時代、現在の神田司町二丁目(かんだつかさまちにちょうめ)にあたるこの地域には、佐柄木町(さえきちょう)、新銀町(しんしろがねちょう)、雉子町(きじちょう)、関口町(せきぐちちょう)、三河町三丁目(みかわちょうさんちょうめ)、三河町四丁目(みかわちょうよんちょうめ)などがありました。
このうち雉子町には、「江戸名所図会」(えどめいしょずえ)を親子三代にわたって完成させたことや、「東都歳事記(とうとさいじき)」「武江年表(ぶこうねんぴょう)」などで有名な、斎藤月岑(さいとうげっしん)が住んでいました。斎藤家は代々、雉子町ほか五ヶ町の名主をつとめていました。
明治五年(1872年)、これらの町はそれぞれ正式な町名となりますが、昭和初期の区画整理の際にひとつに統合されることになります。新しい町名の命名は、江戸の総鎮守(そうちんじゅ)として親しまれる神田神社の平田盛胤宮司(ひらたもりたねぐうじ)に依頼され、「司(つかさ)」が縁起のよい文字であることから「司町(つかさまち)」と名付けられました。こうして司町二丁目は一丁目とともに誕生したのです。昭和十年(1935年)のことでした。
昭和二十二年(1947年)、神田区と麹町(こうじまち)区が合併して千代田区が成立すると、司町二丁目は神田司町二丁目となります。その後、住居表示の実施により神田司町一丁目(かんだつかさまちいっちょうめ)は内神田(うちかんだ)一丁目~二丁目の一部になりましたが、神田司町二丁目の町名は現在も引き継がれ、永く人々に親しまれています。
神田司町二丁目界隈
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安政三年・1856の現在地付近に斎藤月岑が住んでいた雉子町がある。
町内にふくろうの像があった。
徳川家康が朝鮮の使節を饗応するために、好物の雉子を囲った場所がこの辺りであったので、この名が付けられたと言われている。元和年間(1615~1623)に門外の人家を移して雉子町とした。
1933年(昭和8年)~1935年(昭和10年)、帝都復興計画の一環により、小川町一丁目・須田町一丁目・司町二丁目のそれぞれに編入となり消滅。
雉子橋
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雉子橋門跡
家康が朝鮮からの使節をもてなすための雉(きじ)をこの附近の鳥小屋で飼育したことが橋名の由来です。
1629年(寛永6年)に江戸城外郭門の一つである雉子橋門が築造され、橋が架けられました。橋は1903年(明治36年)に鉄橋に改架されました。1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で被災したため、1926年(大正15年)に新たに架けられたのが現在の橋です。
橋には大正十四年十月竣工と刻まれているが、説明板は大正15年と書かれている。
説明板が間違い?
江戸時代の雉子橋付近
雉子橋通り