歩・探・見・感

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神明宮鳥居沓石(礎石)の高低測量几号 埼玉県草加市

埼玉県草加市の旧日光街道を探索していたところ、日光街道にぶつかる手前に神明宮があったので、立ち寄ってみることにした。

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イチョウの紅葉が太陽に照らされていて、美しく輝いていた。
んっ?黄色でも紅葉と言うのか?

と悪い癖だ、またわき道にそれる。
感心のない方は読みとばしてもらって構わない。
護国寺ナビの「紅葉と黄葉の違い!正しく知っていますか?」に詳しく記載されていたので、少し長いが引用させていただいた。

紅葉(こうよう)とは落葉広葉樹の葉が紅色や黄色に色づくことを言います。

一般的には紅くても黄色くても紅葉(こうよう)と表現しますが、正しくは紅色に色づくことを「紅葉(こうよう)」、黄色に色づくことを「黄葉(こうよう)」と言います。

それではなぜ、二つの色に分かれるのでしょうか?

木の葉には「クロロフィル」という緑色の色素と「カロチノイド」という黄色の色素が含まれています。これらは葉の葉緑体の中にあり、春と夏の日差しの良い日は、協力して光合成を行ないます。

この時点では「クロロフィル(緑)」のほうが強いので、葉の色は緑です。

しかし、秋になって日差しが弱くなってくると、先に「クロロフィル(緑)」が分解さてしまい、「カロチノイド(黄)」だけが残ります。

この時点で、葉の色は黄になります。これが黄葉です。

さらに、モミジなど紅く黄葉する植物は、葉の中に糖分が増え、「アントシアン」という紅い色素が合成されます。

この時点で、葉の色は紅になります。これが紅葉です。

まとめると、葉の色の状態は次のようになります。

緑色→クロロフィルの分解

黄色→カロチノイドの分解
紅色→アントシアニンの合成

葉が緑色から紅色になるもの(紅葉)

緑→(黄)→紅

厳密にいうと黄色になるときもありますが、黄と紅がほぼ同時に進行します。そのため、黄色の状態が飛ばされたように見えます。

(例)カエデ、モミジ、ツツジなど

葉が緑色から黄色になるもの(黄葉)

緑→黄

黄色から紅色の反応がほとんど見られないため、黄の葉のまま散ってしまいます。

(例)イチョウ、ヤナギ、カバノキなど

葉が緑色から黄色を経て紅色になるもの(黄葉・紅葉)

緑→黄→紅

葉の要素が順番に分解&合成を経て色が変わります。

(例)トウカエデなど

以上だが、同じ地域だと桜の花が咲くのもそうだが、ほぼ一斉にこのように変化するのが不思議だ。
これは気温が関係するそうだが、また長くなるので、別の機会にしよう。

とにかく日本の四季の変化は素晴らしい!

 

さて神明宮に戻ろう。

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神明神社の祭神は、天照大神で、そのほか御神霊石も祀られている。
 当社は、与左衛門新田の名主吉十郎の祖先が、元和元年(1615)に、宅地内に小社を建立したことに始まるという。それから約百年後の正徳三年(1713)に、この地へ移され、草加宿の総鎮守となった。この頃から、五と十の付く日に市が生れ、大変な賑をみせたと言う。このことから、この神社の別名を「市神・新明宮」と呼ばれている。
 安永六年(1777)に、草加宿の一丁目から三丁目までが、二丁目稲荷神社を八坂神社と改称したことから鎮守の分離が行われた。
また、幕末には、新職の藁美濃とその養子藁一尹が、宿の子を対象とした寺子屋を開いた。
                               草加市教育委員会

 

ここは「宿篠葉(しゅくしのは)神明神社」とも言うらしく、「宿篠葉」とは何かと調べたところ、元はこの辺りが宿篠葉村→草加町大字宿篠葉だったらしく、旧町名であることが分かった。
また、地元では、古くから「神明様」「六丁目様」「六丁目神社」などと呼ばれているらしい。

 

ようやく本題となる。
鳥居の右下の方に石碑があったので、近寄ってみるとあった。
何があった?

そう、あの記号だ。
埼玉県では最初の発見だった。
几号水準点は高低測量几号とも言うことがわかった。

現在、これは鳥居の右下あたりに設置されているが、以前は境内に放置されていたそうだ。
まだ2つしか知らないが、このような石碑が設置されているのは珍しいのではないか?
以前紹介した「浄名院」のものは、保存はされているようだったが、何もないと普通は気が付かない。

発見日  2021年11月30日

発見場所 埼玉県草加市神明1丁目

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石造物に刻まれた「不」の記号は明治九(一八七六)年、内務省地理寮が
イギリスの測量技師の指導のもと、同年八月から一年間かけて
東京・塩釜間の水準測量を実施したとき彫られたものです。
記号は「高低測量几(き)号」といい、現在の水準点にあたります。
この石造物は神明宮のかつての鳥居の沓石(礎石)で、当時、記号を
表示する標石には主に既存の石造物を利用していました。
この水準点の標高は、四・五一七一メートルでした。
その後、明治一七年に測量部門は、ドイツ方式の陸軍省参謀本部測量局
に吸収され、内務省の測量結果は使われませんでした。
しかし、このような標石の存在は測量史上の貴重な歴史資料といえます。

 

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この礎石は、几号水準点のうち東京から栃木県までの設置場所64か所を記録した内務省地理局雜報第十四号(明治12年)掲載のリストに「草加驛六丁目神明社華表」と書かれている華表(=鳥居)の礎石で、2003年の前半までは境内の片隅に横倒しにされて放置されていたが、標石研究家伊藤正昭氏によって几号の現存が確認された。
伊藤氏は草加市へ歴史遺産として保存するよう嘆願を働きかけ、それを受けた草加市は、同年の7月には保存措置を完了させた。

この時の草加市の対応は、素早く、ナイスだ!

その際に几号の由来を記した石碑も建てられ、几号は線刻を際立たせようと赤く着色されたが、現在、赤の塗料は剥げ落ちている。
神明神社の「修繕等各種控」によると、几号が刻まれた当時の鳥居は嘉永4年の建立によるもので、礎石に関しては「沓石壱対代価金七両弐分」、石工は草加宿の「石屋政五郎」が請け負ったと記されている。

「不」の字の横棒は9センチメートル、縦棒は11センチメートル。

 

高低測量几号の左隣に国土地理院所管の水準点(地中標)が設置されていた。

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