歩・探・見・感

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ノスタルジック、レトロ、ディープそしてマイナーな世界へようこそ

武家屋敷 永島家住宅 埼玉県川越市

喜多院へ向かう途中、古そうな建物を見かけたので、立ち寄ってみた。
驚いたことに、ここは、埼玉県に残る唯一の武家屋敷だった。

永島家住宅は川越城南大手門近くの侍町だった三久保町に残る江戸時代後期の武家屋敷。埼玉県下の城下町は川越・忍(現在の行田市)・岩槻(現在のさいたま市)にあったのだが、その遺構はほとんど残されていない。関東県内でも現存事例はごく僅か(千葉県佐倉市)で大変貴重なものとなっている。

 

発見日  2021年12月27日

発見場所 埼玉県川越市三久保町5番3

 

永島家住宅の門

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枳殻の生垣で囲まれた敷地の入口は腕木門
北側の道路面より高くなっている。

腕木門(うできもん):二本の本柱を立て、これより腕木を出し、出桁(だしげた)をおいて、屋根をかけたつくりの門。

 

武家屋敷の俤(おもかげ)
「坊主 枳殻 医者 山伏」

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これが古い川越の名物とされていた
外はともあれ枳殻(からたち)
の木の多いのは武家屋敷
屋敷の外囲いは
枳殻の生垣でなければ
ならぬときめられたためである
三久保町は昔武家の屋敷町であり
三十軒程(北久保、堅久保、南久保、
清水町を併せて)が枳殻の塀を連ね
ていたのであるが今その俤を遺す
もの僅かにここだけとなり
この生垣の中に
枳殻が僅かに残っている

 

永島家住宅(武家屋敷)(市指定・史跡)

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武家屋敷は、そこに住んでいた武士の持ち家ではなく、藩から拝領された借家だが家賃は取られなかったそうだ。藩の武士は住む場所は与えられていたが、住んでいた武士の格式が変わると住居は転居させられていたようだ。

永島家住宅のある三久保町は、その昔、武家の屋敷町だった。30軒程(北久保、堅久保、南久保、清水町を併せて)が枳殻の木の塀を連ねていたという。しかし現在、その面影を遺すものは、わずかにここだけとなってしまった。

 

永島家住宅

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この日は公開日ではなかったので、中に入ることはできなかったので、周辺をぐるり。

公開日 毎週土曜のAM9:00~PM4:00

敷地は350坪ほどあるそうだ。
屋根は元は茅葺きだったそうだが、現在はトタン屋根で覆われている。
明治14年ごろまでに増築や改造が行われ現在の間取りが整ったとされる。

武家屋敷という言葉のイメージから連想されるのは、長屋門とか土塀に囲まれた屋敷の佇まいなどだが、景観的にそういった趣はない。

住んでいた武士は、
松平大和守直温の頃、勾坂鹿平(さきさかかへい)(物頭300石)
松平大和守斉典の頃、堤愛郷(つつみあいこう)(江戸詰御典医250から300石)
松平大和守典則、典侯の頃、三浦半兵衛(さんのはんべい)(海防のため、相模派遣250石)
松平周防守康英の頃、石原昌迪(いしはらまさみち)(御典医110石)
まで確認されている。

御典医とはお抱えの医者のこと。

明治以降、この屋敷は東京帝国大学教授であった石原久( ひさし)の所有となっていたが、口腔科学会設立の費用を捻出するため、大正6年に永島家へ譲渡。その後は永島家親族の女性が住み、下男部屋は他人に貸していたとの事だが、永島家の方が平成17年まで実際に住んでいて、平成22年に土地の全てと建物を川越市に寄贈したようだ。

※石原久は御典医の石原昌迪の次男として慶應2年(1866)に生まれ、東京帝国大学で学んだあと、明治32年(1899)政府の辞令によりドイツへ3年間留学した。帰国後は歯科学教室主任となり、外来を開設。大正2年(1913)に『歯科医学談話会』を開催し、のちに歯科学の教授となる。資金を得た石原久は、大正7年(1918)日本歯科口腔科学会(現・日本口腔科学会)を設立して初代会長に就任。昭和16年(1941)に永眠した。


※永島家は、寛文8年(1668)に武蔵国久良岐郡泥亀新田(現・横浜市金沢区)を開発した永島祐伯(泥亀)の子孫。
本家は代々『永島 段右衛門』を名乗り、江戸後期に三浦半島の警備をしていた武蔵国川越藩松平氏のもと、さらに塩田開発に努めて塩の生産に関わった。泥亀新田では名主のほか諸役人にも命ぜられ、明治以降は戸長となった 製塩業で富豪となった永島家の本邸には見事な牡丹園もあったが、明治末期の塩田廃止により永島家は経営破綻。大正時代になると博文館の大橋新太郎が泥亀新田と永島邸を買収し、『八景園』などを開園した。
その後は西武が買収して『ホテル八景園』となるが、昭和43年(1968)頃に閉館。土地は分譲されて、現在は住宅地となっている。

 

中に入った人の感想の中に、
保存状態はあまりよくなく、かなりひずんでいて、戸を開けるのも一苦労だそうで、朽ち果てる寸前との表現でも大げさではない。
さらに、老朽化は激しく維持していくには相当なコストがかかるものと思われ。手を入れずしばらくして取り壊される可能性が高い。
というのがある。
川越市の観光の中心は重要伝統的建造物群保存地区に選定されている市街地なので、こちらまで予算が回らないのだろうか。
埼玉県唯一の武家屋敷である永島家住宅にも目を向けてほしい。

 

屋敷の石垣と鋭い刺を持つからたち(みかん科)の生垣

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中国原産で冬に葉を落とす高さ2~3mの低木で、枝は濃緑色で角張っており、葉っぱはだ円形の小葉が3枚集まりひとつの葉を形成する三出複葉(さんしゅつふくよう:ミツバの葉のような感じ)。葉の付け根には長さ5cm前後の扁平で鋭いトゲが生えている。4月~5月、葉が出る直前~同時くらいに5枚の花びらをもった白花をトゲの付け根に1輪ずつ咲かせる。

枳殻には、鋭いトゲがあるので、当時の武家屋敷では侵入者を防ぐために植えられていた。
門の前の枳殻はひどい切り方で切られて以来、実がならないらしい。

北原白秋作詞・山田耕筰作曲の「からたちの花が咲いたよ 白い白い花が咲いたよ」という歌があるように白い花が咲くのだが、冬なので、枯れ落ちいてた。

葉には特有の香りがあり、アゲハチョウの幼虫が好んで食べる。

名前の由来
中国から渡来した橘(たちばな)「カラタチバナ(唐橘)」を略して「カラタチ」になったと言われている。漢字では「枸橘」もしくは「枳殻」と書いて「カラタチ」と読む。「枳殻」はキコクとも読む。

 

永島家住宅前にある七曲りの解説版

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川越城下の武家地は、城の近くに上級武士、離れるに従って中・下級武士、街道筋には足軽屋敷が配置されいた。こうした構成は江戸時代を通じて変化はないが、家臣団の規模により武家地の領域には変動があった。

松平大和守の入封に伴い、武家地は大きく拡大する。秋元家時代(1704~1767)の川越城下の様子を描いたとされる『秋元但馬守様川越城主之頃図』と松平大和守家時代(1767~1866)の城下図とされる『川越城下図』と比較すると、秋元家時代に城下の外であったところにまで武家地が拡大し、これに伴い道もつくられたことがわかる。ここでの道のつくられ方は直線路となっている。一方、秋元家時代に郷分町(村が町場化したころ)や燈明寺(東明寺)・泰安寺の寺域となっていたところにまでも武家地が拡大し、同様に道がつくられたことがわかる。こちらでは、郷分町であったところや寺域境であったところに沿うように道がつくられている。この拡大範囲の道は非常に屈曲が多く、郷分町であった側は、通称「七曲り」と呼ばれるようになった。なお、「七曲り」とは道が幾度にも折れ曲がっている場所のことをいう。

ふたつの城下図から「七曲り」は、江戸時代も後半になってつくられた屈曲路であることが明らかであるが、防衛上の目的からつくられたのかどうか定かではない。『秋元但馬守様川越城主之頃図』では既に屋敷割の原型がつくられており、松平大和守家時代にはその屋敷を踏襲するかたちでは武家地は拡大された。そして、この屋敷割に沿うとともに各屋敷への出入りを容易にするために道がつくられ、結果的に複雑な屈曲路をかたちづくることになったのであろう。「七曲り」は、武家地の拡大という事実が生んだ道であること。そして、今に江戸時代の名残を留める道であることは間違いない。

 

七曲りは先を急いでいたので、一部しか歩かなかった。