歩・探・見・感

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ノスタルジック、レトロ、ディープそしてマイナーな世界へようこそ

旧町名 中野区桃園町

囲町の旧町名の最後の痕跡である電力プレート「カコイ-3」が消滅してしまった(とても悲しい)ので、中央線の反対側の桃園町の旧町名の痕跡を紹介しよう。

こちらはいたるところに「桃園町」が残っている。

 

①中野区桃園町二九番地

発見日 2020年2月13日

 

②中野区桃園町二七番地

発見日 2021年1月11日

 

③中野区桃園町10番地

発見日 2021年6月21日

 

④桃園町37番地

発見日 2022年5月21日

これは、初見のものだ。
この辺りは何回か探索していたが、気が付かなかった。
普通の表札と違うので、気が付かなかったのだろう。
センサーを強化しなければ。

 

⑤モモゾノ-29

発見日 2022年5月21日

これは電力プレート(デンリョク)の中央部分だろう。
上と下を切り取ったものと思われるが、何故?
それもこんな場所に、何故?

 

⑥目撃情報があった「中野区桃園町44」があると思われる場所付近を探索した。
工事中で、表札が設置されていた門もなくなっており、消滅したと思われる。

中野区立桃園第二小学校(2022年10月16日追加)

大正10年4年1日  東京府豊多摩郡中野町立桃園第二尋常小学校として開校
昭和22年4月1日  東京都中野区立桃園第二小学校に改名
令和3年11月20日  開校100周年

 

桃園会館

 

桃園稲荷

創建の年代や経緯は不明

 

桃園通り

 

桃園商店街

 

桃園町会

 

中野区桃園区民活動センター

桃園ルネサンス

中野の桃園地域は、八代将軍徳川吉宗時代に「桃の園」と呼ばれるほどたくさんの桃の花が植えられ、江戸の名所として見物客を集めたそうです。
その歴史を復活させるため、桃園まちづくり小委員会を母体とし、平成9年に本会を発足しました。
その後、中野駅南口ロータリーでの桃の花の植樹祭を皮切りに、桃園地域で桃の木をたくさん植えています。

 

桃園地域防災地図

ここに桃園町や囲町の名前を見つけた。

 

桃園町会防災会

 

囲町町会防災会

以前は囲住宅自治防災会というのもあったようだ。


白いシールを貼って隠しているのかもしれないが、透けて見えている。

桃園第三小学校の文字が見える。
東京都中野区中央5丁目にあった公立小学校。2008年(平成20年)3月をもって閉校し、桃丘小学校、仲町小学校とともに現在跡地に新設の桃花小学校として統合した。

桃園小学校が本町3丁目にあったそうだが、2019年3月31日中野区立向台小学校と統合することとなったため、この日を以て廃校となった。

 

桃園川緑道

桃園川緑道は、旧桃園川の暗渠上に整備された、杉並区と中野区にわたって連なる緑道である。JR中央線の南側に位置し、杉並区側は、区立桃園川緑道として、阿佐ケ谷-高円寺駅間の高架脇から中野区との境まで、東西約1,600mに及ぶ。
1969(昭和44)年4月1日開園。当時の「杉並区広報」によると名称は「桃園川公園」で、細長い立地を生かして、幼児・少年・成人と3つの機能別コーナーが設けられ、遊具、ボール遊び場、階段式噴水などがあったという。その後、遊戯施設等の老朽化もあり、できるだけ段差をなくし安心して歩ける緑道にしようと、平成元年度から改修に着手。1994(平成6)年3月31日に「桃園川緑道」として生まれ変わった。

桃園公園、桃園川公園は見つからず。
見つけられなかっだけかもしれない。

 

桃園橋は下記の事業予定区間に入っている。

桃園橋を撤去するのは、都道420号線(補助26号線)、通称中野通りの拡幅のためだ。

親柱と欄干を2021年6月21-25日に撤去することが、現場の掲示により告知され、そこには「撤去・移設し、都有地にて保管します」と記載されていたそうだ。

ということはいずれ復活してくれるのだろうか?

 

在りし日の桃園橋のプレート。

 

囲桃園公園

ここにも「囲町」の名前が残っていた。

 

歴史

1931年(昭和6年
桃園町成立。

1966年(昭和41年)10月1日
住居表示により宮園通四丁目および同五丁目の各一部、中野駅前の一部、桃園町から中野3丁目となり、桃園町消滅。

 

地名の由来

徳川吉宗の時代には旧・桃園町域(現・中野三丁目)に桃の花の名所が作られ、地名の由来となった。江戸後期には一般庶民も花見に訪れるようになり、隅田川飛鳥山の桜と併せて現代の花見のルーツとされる。

 

丸谷才一著『低空飛行』(新潮文庫)に「中野桃園町」というエッセイがある。
「今は中野区中野三丁目だらうか。味気ない地名になつたけれど、以前は中野区桃園町であつた。わたしは英文科の学生のころから結婚するときまで、かなり長いあひだこの桃園町に下宿してゐたのである。もつとも、桃の林なんかない、ただ家並がつづいてゐるだけの、ごくありふれた東京の町である。」