旧町名「二長町」は以前下記の記事で紹介したことがある。
この日(2023年6月10日)は鳥越祭が開催されていた。
今回は、鳥越祭の時しか見れないと思われる旧町名「二長町」の痕跡を紹介しよう。
二長町々会
ポスター
渡御時間表
旧町名の町会名が書かれてるものがあり、しばし見入ってしまった。
駐車禁止の貼り紙にも「二長町」。
出番を待っている山車や神輿
神輿蔵の中に昭和34年製の古いものがあった。
初音鮨本店
この中に「二長町」が書かれていた。
鴬の初音
きいたか二長町
変遷
住時の魚市場は現在の三越辺りにあり、初代森安太郎は明治五年十月にその近くに店を開き、天秤棒に岡持ちをさげ、唐桟の着物に腹掛け半股引きという姿をし、イナセな声で「エー小肌・小肌のすし」と呼び声をかけ"すし"を売り歩いた。
その後、明治二十年代に、この地、下谷区二長町五十番地に移り住みました。当時の二長町界隈は、嵯峨侯爵家、藤堂家、宗家が差配されていた様です。又、この二長町には芝居小屋で有名な「市村座」(昭和八年まで)があり、六代目菊五郎、中村吉右衛門、三津五郎等、幾多の名優が活躍し、大向より「二長町」の掛声が盛んであったそうです。二代目勇太郎の頃、関西の方々と交流し、「吹き寄世五目」、現在の"ちらし"ずしを考案しており、三代目甲子太郎の頃、のりで帯をした舎利の上に、「このわた」を乗せて、現在の軍艦巻きの原型を創造したようです。
四代目豊造は大正から昭和十年代まで、この辺では有名な「三味線堀」の堀添いに屋台店(タタミ半畳の上に座って握り一mの長い"のれん"をかけ、周囲はかこってあったが、吹きっさらしの為、冬はあがり(お茶)がすぐさめるので、厚つ手の湯呑を使った。お客様は立喰いであった)を出し、その妻、「花子」は、若い頃からこの屋台店で"すし"を握り続けた。昭和十五年頃から家店でも立ち仕事と変化して行ったが、大東亜戦の敗戦により江戸末期から始まった屋台店は、昭和二十年八月GHQの進駐と共に、不衛生の由をもって、完全に姿を消す事となった。
江戸の名残であり、庶民に一番親しまれてきた屋台店の歴史は慈に終わりを告げた。四代目は戦後の二十二年、この地に店を復元した、而し、敗戦という現実の前に、極めて厳しい営業をしいられたがGHQの許可に依る「持参米委託加工」によって息を吹きかへした。二十五年頃から営業形態も、食管法による取締に遭遇し乍らも、だんだんと網戸の中で握った"すし"を小窓から出していた時代をすぎ、戦前にはなかった現代風のカウンター・テーブル・椅子席と変化し、これによって女性や子供連れのお客様も増加して今日に至った。
皆々様に益々ご愛顧お引立を頂ける店として努力致して参りますので、何卒、ご贔気賜わります様、心より伏してお願い申し上げます。
平成三年十一月
五代目店主
拝
上の変遷の中にも書かれていた市村座跡
明治25年(1892)11月、下谷二長町1番地といったこの地に、市村座が開場した。市村座は歌舞伎劇場。寛永11年(1634)日本橋葺屋町に市村座は創始し、中村・森田(のち守田)座とともに、江戸三座と呼ばれた。天保13年(1842)浅草猿若町2丁目に移り、ついで当地に再転。
二長町時代の市村座は、明治26年2月焼失。同27年7月再建して東京市村座と呼称。大正12年9月の関東大震災で焼けたが再興、昭和7年5月に自火焼失し消滅という変遷を経た。明治27年(1894)再建の劇場は煉瓦造り3階建で、その舞台では、六世尾上菊五郎・初代中村吉右衛門らの人気役者が上演した。いわゆる菊五郎・吉右衛門の二長町時代を現出し、満都の人気を集めた。しかし、その面影を伝えるものはほとんどなく、この裏手に菊五郎・吉右衛門が信仰したという、千代田稲荷社が現存する程度である。
平成6年3月
台東区教育委員会
来年、鳥越祭が開催されたときはもう少し旧町名の痕跡を探してみることにしよう。
あっ、そうだ、神田祭の記事もいくつか書いているのだが、まだアップできていない。
祭りとは関係ないが、桜を題材にした記事も書いているのだが、新しい記事を書いている間にどんどん季節が過ぎてしまい、今更アップするのか悩ましいところだが、折角途中まで書いているので、完成でき次第、季節外れでもいいから、アップしようかな。その頃には真夏になっているかもしれないが・・・。