歩・探・見・感

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ノスタルジック、レトロ、ディープそしてマイナーな世界へようこそ

「一石橋の親柱」「一石橋迷子しらせ石標」「几号水準点」と紫陽花

随分前に撮っていたのだが、記事にすることを忘れていて、紫陽花の季節になったので、再訪して撮り直してきた。

 

撮影日  2022年2月14日、2023年6月26日

撮影場所 東京都中央区八重洲一丁目

一石橋の親柱

 

下流側から

 

右岸から

皇居外堀と日本橋川が分岐する地点に架橋された一石橋の歴史は古く、江戸初期の「武州豊島郡江戸庄図」にすでに木橋として見えています。当時は西河岸町と北鞘町とを結ぶ橋で、橋名の由来としては、北橋詰近くの本両替町に幕府金座御用の後藤庄三郎、南橋詰近くの呉服町には、幕府御用呉服所の後藤縫殿助の屋敷があり、後藤をもじって五斗、五斗+五斗で一石と名付けたと「江戸砂子」に見え、日本橋地区と神田地区を結ぶ橋として重要でした。
 木橋としては最後となった明治6年(1873年)の一石橋は長さ十四間、幅三間の橋でした。大正11年(1922年)に東京市道路局によって鉄骨コンクリート花崗岩張りのモダンな橋となり、堂々とした親柱四基をすえた白亜の橋となったのです。関東大震災にも落橋せず、その後も交通上の重要な橋として使われてきました。平成9年には大正11年の橋本体は全て撤去されましたが、威風堂々とした花崗岩の親柱一基は残され、当時の姿を忍ばせています。
 平成14年に中央区文化財に登録されました。

 

1963年(昭和38年)12月に首都高速都心環状線京橋出入口〜呉服橋出入口間が開通した際に、下流側橋詰に呉服橋出入口を設置するために親柱2本を撤去、さらに1973年(昭和48年)には鈑桁橋に改修される際に袖柱4本も撤去、上流側に親柱2本が残るのみとなってしまう。

さらに老朽化と拡幅のために1997年(平成9年)の大改修時に撤去となるところであったが、関東大震災以前のRCアーチ橋のものとしては、都内最古の親柱として貴重な近代文化遺産であることが認められ、2002年(平成14年)に南詰下流側の親柱1本を中央区が区民有形文化財建造物に指定し、保存されることとなった。

 

一石橋の歴史

一石橋は寛永年間(一六二四~一六四七)またはそれ以前から存在した橋である。左の写真に見られる一石橋の姿は、大正十一年に架け替えられた当時の姿で、アーチ部分の石積み、重厚な石の高欄や親柱、照明などの細部に至るまでデザインの施された橋であり、当時の時代を感じさせる西洋的でモダンな印象をかもし出している。
一石橋の上流半分は、四十八年にスチール製の桁橋に架け替えられ、平成十一年には下流半分についても架け替え工事が行われて今日に至っている。大正時代当時の一石橋の姿を残しているのは上流側の大きい親柱と小さい親柱(当時の袖柱)のみとなり、残りの施設については、平成十一年の下流側架け替え工事に伴い、当時の姿と印象を残し継承する意味で新たに造り替えられている。

 

一石橋の上から

 

一石橋迷子しらせ石標

「迷子」は「まいご」ではなく「まよいご」と読む。

「一石橋の親柱」の左側にある。

冬に撮ったので、当然のことながら紫陽花は咲いていない。

正面

「満(ま)よひ子の志(し)るべ」

 

右側面

「志(し)らす類(る)方」

 

左側面

「たづぬる方」

 

裏面

安政四丁巳年二月 御願済建之 西河岸町」

旧町名「西河岸町」が刻まれている。

 

江戸時代も後半に入る頃、この辺から日本橋にかけては盛り場で迷子も多かったらしい。当時は迷子がでた場合、町内が責任をもって保護することになっていた。そこで安政4年(1857年)、西川岸町の一石橋に迷子探しのための告知石碑が建立された。日本橋から一石橋にかけての諸町名主などが世話人となり、迷子保護の立場から町奉行に申請したものである。
 銘文は、正面「満(ま)よひ子の志(し)るべ」、右側面「志(し)らす類(る)方」、左側面「たづぬる方」、裏面「安政四丁巳年二月 御願済建之 西河岸町」。両側面上部に長方形の窪みがあり、左側面の窪みに迷子や尋ね人の特徴を書いた紙を貼る。通行人がそれを見て心当たりがあれば、その旨を書いた紙を右側面の窪みに貼って知らせたという。いわば庶民の告知板である。このほか湯島天神境内の「月下氷人石」や浅草寺境内、両国橋橋詰など往来の多い場所に同様のものがあった。しかし震災や戦災などで破壊され、現存するのは一石橋のものだけである。
 総高175.7cm(棹石163cm、台石12.7cm)、棹石正面幅36cm、同奥行26cm、台石正面幅70cm、同奥行68.5cm。作者などは不詳である。

 

「月下氷人石」の「氷」の文字ににシールが貼ってある。
気になるよね~。
えっ、小さくて見えない?
そんなことどうでもいい?
そうはいかないんだなあ~、当ブログでは。

調べてみたところ、元は「水」だったようである。ある方が間違いに気が付いて、東京都に指摘したところ、修正シールが張られたようである。
よく気が付いたなあと感心。

湯島天満宮には「月下氷人石」ではなく「奇縁氷人石」がある。これは明治2年から同3年9月迄の間に再建されたもののようだ。

全国的にはいくつか現存しているようで、京都市内には八坂神社に「月下氷人石」、誓願寺に「迷子しるべ石」、北野天満宮「奇縁冰人石」がある。

 

紫陽花とのコラボ

正面



右側面

 

左側面


几号水準点

正面下部に刻まれている几号水準点

横:約8㎝、縦:約10㎝。