歩・探・見・感

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青梅市で旧町名「六万」の痕跡を探す

この日(2024年1月25日)は青梅駅周辺を探索後、東青梅駅周辺を探索することにしていた。

それぞれ目的のものを収穫でき、まだ時間があったので、河辺駅までの間に旧町名の痕跡がないか探し回っていた。

探索していたところ、公園にこれから紹介する説明板と石碑の裏側が目に入った。こういうのが目に入ると表に回って何が書いてあるのか確認したくなる。

公園の中では子供たちが遊んでいるので、いきなり不審者侵入みたいな感じだった。

変なおじさん、何の写真を撮っているのだろうという視線は感じなかったが、もし感じていたとしても無視しているだろう。

六万公園

所在地 青梅市東青梅3-7−1

六万という地名は、六万薬師堂に由来しています。
天正十八年(一五九○年)、師岡城が落城した際に戦死した人たちの菩提を弔うためと、 その後の飢饉や悪疫の流行を除くために、根ヶ布天寧寺八世の正翁長達和尚が法華経六万部を読誦しました。
そして、衆生の病をいやし、寿命をのばし多くの災いを除く薬師如来像を招来して薬師 堂を建てました。
そのため、近隣の人たちから『六万薬師』と呼ばれ、厚い信仰を集めるようになりました。
こうした出来事にもとづき、今でもこの辺り一帯は、六万という地名(字名)で多くの人から親しまれているのです。


なになに、この辺りに「六万」という字名があっただと?

探索してみたくなった。

その前に、この公園にある記念碑と書かれている石碑にも触れておこう。

裏側を確認するが、木の影が写っていて、よく読めない。

逆か、木の影が写っているところは読めて、明るいところは読めない。

書き起こししたいところだが、あきらめた。

青梅市自治会連合会第八支会 創立50周年記念誌』に下記の記事が載っていたので、拝借させていただいた。

昭和28年12月より区画整理事業に着手、当時は原野であった303人996筆の
171,427坪を整備し公園5,171坪、道路33,172坪、総工費2億余円で昭和39年9月に完了した。この事業で昭和38年7月に六万公園が開園し、その後に記念碑として建てられた。

探索開始。

まず、六万橋を発見。


他に「六万」が付くものがないかとスマホで検索してみると「通り」と地名の由来である「六万薬師」が近くにあることが分かった。

市役所六万通り



青梅六万薬師

所在地 青梅市東青梅2-3



青梅六万薬師縁起

書き起こしてみたが、書けない漢字があり、それらは読み仮名を採用したものもあるので原文通りではない。

開創 天正十八(西暦一五九一)年六月当村師岡城落没ののち近隣大いに疫病流行の際天寧寺八世正翁長達和尚栖除の祈祷及び戦死追福の為に宗内の浄侶を聘し法華経六万部を読誦書写しここに一宇を創立すと云そののち宝暦年間(一七五一-一七六四)火災に罹りことごとく皆烏有と為しを明和年間(一七六四-一七七二)一空休心庵主の発起にて再建すといえども該記録を失す今に字を六万部と称す明治一六年一月三日近傍火災に遭遇し復皆烬となりぬ明治一七年一月中村内信徒山崎孫七同仙助同愛三外廿余名と計画して之を再営す  
一、本尊 薬 師 如 来 (中央)
一、   日光菩薩月光両菩薩(中央)
一、   地 蔵 菩 薩(向って左)
一、   十 二 神 将(向って右)

縁日  毎月十二日

例大祭 四月十二日

この写真では読めないかもしれない。"烏有"を"ちょうゆう"とフリガナをふってあるように読めるが、"うゆう"が正しい。

付近を探索してみたが、「六万」が書いてある表札は見つからず。

歴史
1964年(昭和39年)11月
「東青梅地区区画整理事業」に伴い、青梅地区の大字勝沼・西分、霞地区の大字師岡の一部を整理し、東青梅一丁目・二丁目・三丁目・四丁目が誕生。

1966年(昭和41年)11月
「師岡土地区画整理事業」に伴い、師岡の一部を整理し、東青梅五丁目が誕生。

1972年(昭和47年)2月
「城前土地区画整理事業」に伴い、勝沼・師岡・東青梅地区の大字根ヶ布の一部を整理し、東青梅六丁目が誕生。

2024年1月28日追記

2024年1月27日再訪

六万通りの井戸

薬師堂の東隣に花崗岩の井戸桁、屋根と井戸車を備えた「つるべ井戸」(六万通りの井戸)が残っている。

市の水道が拡張された昭和32年頃まで使われていたらしい。