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仁丹町名表示板「上京區椹木町通智惠光院東入西院町」と徳川家康邸跡のコラボ

俳優の佐々木蔵之介氏の実家で有名な佐々木酒造に設置されている仁丹町名表示板については、以下の記事で書いたことがある。

citywalk2020.hatenablog.com


2024年1月4日、久しぶりに再訪したところ、何やら石碑が建っていた。



えっ!?

徳川家康邸跡だって!?

説明文を見ると2023年6月に設置されたようだ。

大河ドラマ「どうする家康」はもう終わってしまっているが、あやかって設置したのだろうか?

正面「聚楽武家地 徳川家康邸跡」



右側面「京都所司代千本屋敷跡」



左側面「是より北 和州郡山柳沢家陣屋跡
         永井尚志寓居跡」



説明板

当地は羽柴(豊臣秀吉)の居城、聚楽城(聚楽第)の南方にあたります。 広島市立中央図書館蔵浅野文庫「諸国古城之図」(聚楽)によれば徳川家康の邸宅がありました。公家山科言経の日記(文禄四年<一五九五>八月八日条)によれば、徳川邸について「聚楽南の私宅」とあり、矛盾しません。
前揭「諸国古城之図」には徳川邸の北向かいに「中村式部大輔(一氏)」、東向かい「浮田宰相(宇喜多秀家)」の邸宅表記がありますが、ほぼ同じ地に現在中村町や浮田町が存在し、これを裏付けます。
現在徳川邸跡を示す地名は存在しませんが、元禄一五年(一七〇二)ごろには「江戸町」が存在していました(京都図屏風)。以上から当地は聚楽城の徳川邸跡と判断できます。
文禄四年の緊楽廃城後は徳川邸も破棄され、前記「江戸町」や北伊勢屋町に代表される町人地に変わりました。西隣地には徳川時代に入って京都所司代の千本屋敷が営まれ、幕末維新期まで維持されました。火見櫓が置かれ、どこからも目につく存在だったと思われます(多数の京絵図)。
幕末期の安政五年(一八五八)、京都警衛のため、北側至近の「千本通御用地」のうち二千坪(日暮通下立売下ル西側)を陣屋地として和州郡山城柳沢保申に与えられました(柳沢家譜集)。
これは慶応三年(一八六七)四月、德川公儀(幕府)若年寄の永井尚志の邸宅として使用されます。新選組局長近藤勇が自ら永井家臣に撃剣指導に来たほか(永井玄蕃頭尚志随伴)、同年一一月一〇日と一一日、坂本龍馬らが訪問しています。(神山左多衛日記、同月一一日付林謙三宛龍馬書翰、越前藩幕末維新公用日記)。 龍馬殺害四日前で、新国家づくりの模索が見込まれます。龍馬は永井を「匕夕同心二て候」と信頼していました(前掲、林謙三宛書翰)

二〇二三年癸卯六月
  特定非営利活動法人京都歴史地理同考会 理事長 中村武生

石碑の設置場所は「上京区椹木町通智恵光院東入北伊勢屋町」とのこと。

仁丹町名表示板「上京區椹木町通智惠光院東入西院町