旧町名業界では高名な102soさんが読売新聞に取材を受けたという記事を見つけた。
4月29日読売新聞朝刊くらし面に「まちなかの絶景」第3回「旧町名表示を探せ」という題で掲載されているそうだ。
読売新聞は購読していないので、記事は読んでいないが、どんなことか書かれているのだろうか?
ネットで調べてみると一部見ることができた。
そこには年齢が載っていた。
38歳だそうだ、若い。
2006年頃から旧町名の探索を開始されているそうだから、今年で16年。
雑誌にも寄稿されているようで、すごい活躍だ。
仕事は何をされているのだろうか?
二足の草鞋、二刀流と両立されているのだろうか?
これからも旧町名業界の牽引者として、頑張っていただきたい。
と、この業界の大先輩に対して、年上目線で申し訳ない。
自分は前期高齢者の一歩手前ぐらいだが、時間と体力には自信があるので、going my wayで頑張っていこう!
さて、今回は、杉並区馬橋の旧町名の痕跡を最近発見したものがあるので、以前発見したものと合わせて紹介しよう。
①馬橋4~439
発見日 2021年7月19日
発見場所 東京都杉並区阿佐ヶ谷2丁目
②杉並區馬橋一丁目一四番地
発見日 2022年4月30日
発見場所 東京都杉並区梅里2丁目
白い石なので、薄くてわかりにくいかもしれないが、「馬橋」の文字が見える。
こんな目立たない表札では意味がない。
元は黒い文字だったのだろう。
老眼は小さい字はもちろん薄い文字にも弱い。
③杉並區馬橋三丁目三一七番地
発見日 2022年4月30日
発見場所 東京都杉並区馬橋阿佐ヶ谷南3丁目
区が旧字体で、右書きなので、戦前のものかもしれない。
下部の方が劣化している。
馬橋の名称はいろいろなところに残っていた。
馬橋小学校
馬橋公園
杉並区立馬橋公園の沿革
この公園は、国から譲り受けた「気象研究所」の跡地に造られたものです。
気象研究所は、昭和二十一年に中央気象台研究部として気象・地象・水象等に関する研究を目的に、当地に再発足し、昭和二十二年気象研究所と改称されました。
昭和五十五年筑波研究学園都市に移転するまで三十四年間にわたり、我が国の気象・地象・水象に関する現象の解明と予測の研究に貢献した施設です。
所在地 杉並区高円寺北四-三十五-五
面積 十九、二六一・三三平方米
用地所得 昭和五十八年三月十六日
前所有者 大蔵省(気象研究所)
公園造成期間 自 昭和五十八年十二月二日 至 昭和六十年三月六日
開園年月日 昭和六十年三月三十日
平成三年三月設置
東京都杉並区
馬橋稲荷神社
石造大鳥居には、左に昇龍、右には降龍の彫刻が施されている。龍の巻き付いた鳥居は珍しく、都内では、品川神社・高円寺寺内稲荷神社と同社の3社だけ。合わせて、「東京三鳥居」と呼ばれている。
馬橋自治会
馬橋地区町会連合会には、高円寺緑ヶ丘町会、梅里二丁目町会、新高円寺町会、阿佐谷南一丁目東町会、馬橋自治会、馬橋三丁目東自治会、馬橋二丁目北自治会、阿佐谷南一丁目親睦会の8町会・自治会がある。
防犯モデル地区
一番下に馬橋北自治会が入っている。
コミュニティふらっと馬橋
民家に掲げられていたが、何だろう?
歴史
1932年(昭和7年)10月1日
大東京市が誕生し、杉並、井荻、和田堀、高井戸の4ヶ村で、杉並区が編成された。区制の施行で大字、小字が廃止され、旧馬橋地域は馬橋1~4丁目にわけられた。
1965年(昭和40年)~1968年(昭和43年)
住居表示実施により、馬橋1~4丁目は阿佐谷北1〜5、高円寺北3・4、高円寺南2・3、阿佐谷南1・2、梅里2となり、馬橋は消滅。
旧馬橋地区は、地主を中心とした馬橋の名に親しんだ住民の反対はあったものの、「馬橋の地名は田舎臭いし、知名度も低いから、知名度の高い高円寺か、阿佐ケ谷の地名に変えて欲しい」との住民の要望も多かったため、中央線の北側地域は高円寺北に、中央線の南側地域のうち、馬橋中央通りより東部は高円寺南に、西部は阿佐谷南に改称した。
青梅街道南側の旧高円寺3丁目と馬橋1丁目の住居表示協議会で、区の住居表示課より「高円寺3丁目は堀之内、馬橋1丁目は成田に含める」という案が提示されたが、住民から「堀之内は、堀之内火葬場が連想されるから駄目だ。成田は成田山(不動様)と間違われる」と、強い反対論が出て、なかなか町名が決まらなかった。
馬橋1丁目自治会会長の三村敏子氏が、「この町は青梅街道に面 しているから、青梅の梅と町を意味する里を組み合わせて梅里にしては」と提案し、協議の結果 、梅里は美しい名前であるし、語呂もよいので、満場一致で承認され、梅里の町名が生まれた。
地名の由来
杉並の地名 文化財シリーズ19から
江戸時代の初期には既に一村をなしていて、かなり古くからの地名であるがその起由はわかない。徳川時代の始めから終わりまで、幕府直轄の天領であったが、潅漑用水に乏しく畑地の多い土地であった。
馬橋稲荷神社は以下のふたつの説をあげている。
・青梅街道南側、梅里2丁目の梅田ビルと志村ビルとの間にあった泉から流れた小川が、街道を横断して桃園川へ流れ、そこに架けてあった橋が、馬で一またぎするくらいの幅であったので、馬橋と呼ばれ、これが村名になったという説。
・阿佐ケ谷南2丁目の馬橋稲荷神社裏手の桃園川の湿地帯を、軍勢が通ったとき、馬を橋代わりにして渡ったので、馬橋の地名が生まれたという説。
馬橋稲荷神社ではこの内、後者の説を有力としている。