今日(2022年10月19日)は、下北沢駅から探索を開始した。
右側に都市が放射状に発展していく様をイメージした絵を、左側には箱根のロープウェイや丹沢の山並みなど沿線観光地の絵を配置。そして男女が向き合っている絵を中央に配し、右の都市部と左の観光地が下北沢で出会うイメージでまとめたらしい。
複々線化をイメージした4本の線も描かれている。
「ロマンスカー」の初代車両である3000形電車「SE」
箱根ロープウェイと冨士山
小田急NEWS RELEASE第18-141号より
小田急小田原線 複々線化完成を記念したパブリックアート
大型陶板レリーフ『出会いそして旅立ち』を公開
~出会いや旅立ち、賑わいを生み出す下北沢駅の新たなシンボルへ~
小田急電鉄株式会社(本社:東京都新宿区 社長:星野 晃司)は、2019年3月29日(金)、「小田急小田原線(代々木上原~登戸間)複々線化※1」の完成を記念した大型の陶板レリーフを制作し、小田急線下北沢駅改札内コンコース壁面に設置しました。
大型陶板レリーフ『出会いそして旅立ち』は、2018年度末の「小田急小田原線(代々木上原駅~梅ヶ丘駅間)連続立体交差事業および複々線化事業※2」の完了にあわせ、小田急小田原線代々木上原駅から登戸駅間(11.7km)の複々線化が完成したことを記念して制作しました。
レリーフのテーマは、小田急グループの経営理念で謳われている「かけがえのない時間(とき)」と「ゆたかなくらし」です。
本パブリックアートは、株式会社エヌケービー(本社:東京都千代田区、社長:外谷 敬之)の協力のもと、今年生誕100年を迎え、1957年に就役した特急ロマンスカー・SE(3000形)のカラーデザインや内装をはじめ、箱根、丹沢、江の島の観光ポスターを手がけるなど、小田急に深い関わりのあった作家 故・宮永岳彦氏の情緒ある原画をもとにしています。宮永岳彦氏の内弟子である宮永辰夫氏、小林敬生氏、日高康志氏の監修のもと、デザインされました。制作は、陶板レリーフやステンドグラスを主素材に45年にわたって500を超えるパブリックアート作品を作り続けるクレアーレ工房(熱海・信楽)が行いました。
レリーフは、新しく生まれ変わった下北沢駅において、お客さま同士の素敵な出会いや旅立ち、そして駅周辺の賑わいの起点となる新たなシンボルを目指します。
歩いてみよう!下北線路街
「下北線路街」は、小田急線「東北沢駅」〜「世田谷代田駅」の地下化に伴い、
全長約1.7kmの線路跡地を開発して生まれた新しい“街”だ。
手作り感が良い!
さて、今回は世田谷区の旧町名「下代田町」を紹介しよう。
世田谷区の旧町名は、「◯◯町」の「町」だけが消滅して現町名が「◯◯」というパターンが主流だが、下代田町は完全に消滅した数少ない町名の一つだ。
①世田谷区下代田町八〇番地
発見日 2021年8月17日
発見場所 東京都世田谷区代沢一丁目
②世田谷区下代田町一七一
発見日 2022年10月19日
発見場所 東京都世田谷区池尻四丁目
③世田谷区下代田町192番地
発見日 2021年4月22日
発見場所 東京都世田谷区代沢三丁目
歴史
1971年(昭和46年)
住居表示実施により、代沢1・3・4、北沢3、池尻4、三宿となり、下代田町は消滅。
代田の地名の由来(世田谷区ホームぺージより)
この地域は、北条氏康の家臣垪和又太郎が永禄12年(1569年)にこの地の領主になったとき、すでに代田屯と呼ばれていたようです(『北条分限帳』)。代田の地名の由来は、「だいたらぼっち」の伝説によるという説が有力だと考えられています。昔、代田の西の守山近辺(現在の守山小学校付近)の窪地のことを村人は「だいたらぼっち」と呼んでいました。それは、この地に雨水や湧水を集めてできた沼地があり、その形が人の足跡に似ていたことから、大男「だいたらぼっち」の足跡と呼ぶようになり、池の近くの玉川上水に大男が一晩でかけたといわれる橋を代田橋と呼びましたが、今はこの橋も池もなくなっています。この「だいたらぼっち」が変化し、「だいた」になったというものです。(「ふるさと 世田谷を語る 代田・北沢・代沢・大原・羽根木」(平成9年3月発行)より引用)
旧町名「下代田町」は消滅してしまったが、「下代田」の名称は、「下代田児童遊園」、「下代田東町会」、「下代田西町会」等に残っている。