歩・探・見・感

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旧町名 文京区氷川下町

ネットで調べていたら、旧町名の発見情報があった。

いつも参考にさせて頂いている方の発信だった。

この辺りは探索したことがあるはずなのだが、この旧町名の痕跡の存在は、今まで気が付かなかった。

 

発見日はすべて2022年12月17日。 

 

①表札

発見場所 東京都文京区千石三丁目

すぐ近くで解体工事をしている人が数人いたので彼らの目が気になった。
こちらを見ていないだろうと思われる時を見計らって、さっと写真を撮り、伏目がちにその場を立ち去った。

急いで撮ったが、ちゃんと撮れていてよかった!

 

②電力プレート

発見場所 東京都文京区千石二丁目

劣化が進んでいるが、遠目でもこの形ですぐわかった。

 

③町会員プレート

発見場所 東京都文京区千石

 

旧町名案内

もと、小石川村であった。
永禄年間(1559~70)北条氏の家臣島津孫四郎の土地および法林院領があった。
江戸時代に入って新田を開き、初め伝通院領であった。のち上地して、砂礫を取って護国寺造営の用に当てた。享保年中(1716~36)その跡地を開墾し、氷川たんぼとなった。旧来農地で、氷川たんぼと称した。明治24年、御殿下・氷川下を氷川下町と改称した。町名は氷川台(簸川神社のある台地)の下の低地にあるので、氷川下町と名付けた。
氷川たんぼは、明治30年代に埋め立てられて、人家が立ち工場が設けられた。谷を流れる千川(小石川)は洪水が多く、昭和9年暗渠となった。

 

地図

「You are here」とここだけ英語。

 

簸川神社

「簸川」は「ひかわ」と読むのだが、知らなければ読めない漢字だ。

なぜ「氷川」ではなく「簸川」なのだろう?

調べてみよう。

江戸時代は「氷川大明神」と称していた。明治に入ると「氷川神社」へ改称したが、さらに大正時代に入って、当代の三代前にあたる神主毛利十世昌教が社号に疑問を持ち、学者に研究を依頼して自らも研究した結果、出雲族出身の国造によって開拓したと伝えられる「武蔵一宮氷川神社」を総本社とした氷川信仰の「ひかわ」は、出雲国「簸川(現・斐伊川)」に由来するという説が適切との結果を得て、「簸川神社」へ改めたとのことだ。

 

氷川下町交和会有志が奉納した御大典記念碑

 

大塚三丁目で下水道工事をしており、その防護壁に氷川下町に関するものがいろいろ掲示されていた。

氷川下町会史

 

上記の地図を拡大したもの

 

氷川下町地図の今と昔

 

簸川神社の絵(新撰東京名所図絵第45編)

 

千石3丁目交差点付近の都電

 

「興真舎牛乳店」の牛舎

1906年明治39年
東京市小石川區氷川下町(現在の東京都文京区大塚3丁目付近)において興真舎牛乳店として創業、乳牛の飼育・搾乳・殺菌処理・配達を開始。

 

氷川下町会

歴史

住居表示の実施により、1966年(昭和41年)4月1日に大塚三・四丁目に、残余は1967年(昭和42年)1月1日に千石二・三丁目に編入となり消滅。