歩・探・見・感

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ノスタルジック、レトロ、ディープそしてマイナーな世界へようこそ

旧町名 騎西町大字鴻茎字立山

騎西町は現在の加須市である。

2010年に合併したので、それほど古いものではない。

しかし、小字付きのものなので紹介したいと思った次第である。

立山」は現存している小字の可能性があり、小字町名になるかもしれないが、騎西町は消滅しているので、旧町名扱いとしている。

「鴻茎」は「こうぐき」と読む。

 

発見日  2020年5月4日

発見場所 埼玉県加須市鴻茎

 

歴史

1889年(明治22年)4月1日
町村制施行に伴い、北埼玉郡騎西町・外川村・下崎村が合併し、騎西町が発足する。
鴻茎村・芋茎村・牛重村・根古屋村が合併し北埼玉郡鴻茎村が成立する。

1943年(昭和18年)4月1日
北埼玉郡騎西町・田ヶ谷村・種足村・鴻茎村・高柳村が合併し、騎西町となる。

1946年(昭和21年)5月1日
北埼玉郡騎西町騎西町・田ヶ谷村・種足村・鴻茎村・高柳村に分離する。

1954年(昭和29年)10月1日
北埼玉郡騎西町・田ヶ谷村・種足村・鴻茎村が再び合併し、騎西町となる。

1955年(昭和30年)3月20日
残りの北埼玉郡高柳村も編入する。

2010年(平成22年)3月23日
加須市北埼玉郡北川辺町大利根町と合併し、新たに加須市となる。

 

地名の由来

鴻茎は古くは鴻ヶ茎と言い、「くき」から出た地名で、燃料採取地を意味する地名で、「久木」や「久喜」とも書いた。

水準基標 浄名院 東京都台東区 PartⅡ

浄名院の水準基標については次の記事で紹介したことがある。

citywalk2020.hatenablog.com

2022年2月17日再訪したところ、消滅していた。

 

いつのことだったか忘れたしまったが、かなり前のことだ。

浄名院の水準基標が再設置されたという情報をネットで入手した。

それからずいぶん経ってしまったが、ようやく訪問することができた。

訪問しなかったのは理由があったわけではない。

しばらくそのことをすっかり忘れていて、何かの拍子で思い出し、再訪しようと思い立ったのだった。

 

訪問日 2023年1月7日

まだ門松が設置されている時期だった。

 

言問通りから山門と信徒会館が見える。

山門にはいろいろなプレートが付いていたが、それは別な記事で紹介した。

 

以前は階段を下りた右側にあったのだが、そこは更地のままだった。

ここに再設置されたのではないのか?

どこにあるのだ。

しばらく付近を探し回る。

 

あれかな?

信徒会館の右側に見覚えのある形の石柱がある。

 

間違いない。

ここに移設されていたのか。

 

ようやく再会できた。

2022年4月頃までに移設されたようだ。

思い出した!

その後、訪問していたのだが、以前あった所になかったので、まだ再設置していないのかと思ってしまい、そのままになってしまっていたのだった。

ブログの記事も更新する予定だったが、忘れてしまっていたのだった。

 

無事移設されているのを目にして、ホッとした。

田端大橋と田端ふれあい橋

再訪したのは雨の日(2023年1月14日)だった。

何日か前の天気予報では、最高気温が最初は19℃、日が経つにつれて低くなりそれでも17℃と言っていたのではないか。

前日の予報は知らないが、当日は10.1℃だった。

 

地図が雨に濡れている。

 

まず、田端ふれあい橋にあったものをいくつか紹介していこう。

橋本体や橋から見える電車、風景を撮るのが普通かもしれないが、そのようなものは一切撮っていなく、あったものしか紹介していないので、あしからず。

 

田端ふれあい橋について

ふれあい橋について

田端ふれあい橋の概要
田端ふれあい橋は、駅前広場と公園機能を合わせもった田端のシンボルとなる歩行者専用の橋です。
この橋は、通勤、通学に利用するだけではなく、散歩道として、または待ち合わせの場所、憩い語らいの場としての快適な歩行空間をつくるとともに、自然の樹木によるやすらぎ、高欄や花壇の自然石による落ち着き、門柱や街灯による時代感を感じさせるものとしました。

田端ふれあい橋の特色
步行部
花壇の形態を波型の曲線にすることにより平面的なやわらかさを出し、カリオンと二本のしらかしによって立体的なアクセントをつけました。中央の白御影石の部分を通行ゾーン、両側のタイル舗装部分は休憩・たまりゾーンとしています。

植栽
花壇の縁石には赤御影石を使用しそのその重厚感による落ち着きを出すとととも、座って 話をしたりすることができます。 樹種は四季折々の花や葉が楽しめるように数多くの種類を配しています。

高欄
木の枝をモチーフしたデザインは花壇の植栽と一体感をなし、快適な歩行空間をつくり出しています。

門柱
大正時代の洋風赤れんが造りと銅板の屋根により、この橋の入口を表現しています。

カリオン
文化の香り高い田端の発展を望んで 「希望の鐘」と名づけました。橋の中央に位置し、四種類の音色で時を知らせます。

展望窓
上野駅川二か所に電車や線路が見える幅四mの大きな展望窓があります。

平成四年三月

東京都北区

 

東北新幹線200系で使用されていた連結器カバー

 

東北新幹線200系で使用されていた車輪

 

40Kレールとポイントリバー

東北新幹線で使用されていたレールと列車の運転方向を切換える装置

 

田端文士・芸術家村について
田端機工街について 

田端文士・芸術家村について
田端には、明治時代末期から大正~昭和時代初期にかけて、画家、陶芸家、彫刻家、俳人歌人、文学者、小説家がこの地域に住み、当時の日本文化をリードしていたため、田端は日本のモンマルトルと呼ばれていました。
明治三十三年に小杉未醒が住み始めてから明治末期に至るまでは「芸術家村」として知られ、その後大正三年に芥川龍之介が住んでからは次々と文士が住むようになり、一躍「文士村」に変身しました。

田端機工街について
田端新町から昭和町にかけての明治通り沿いを中心として、大小約百軒の各種機械器具製造工場が軒を並べています。
これらの町工場は、昭和初期から昭和二十年頃までの間に各地から集まってきたものであり、その当時明治通りは、京浜工業地帯から 川口鋳物工場へ材料を運搬する経路となり、その途中にあるこの一帯に作業工具の店や材料、機械を製造する店が建ったと言われています。
その後、満州事変や日中戦争第二次世界大戦などの戦争景気の影響を受けて目覚ましい発展を遂げてきましたが、当地域には軍の施設や軍工場があったため、戦争による空襲を免れることは出来ませんでした。
戦後は、戦前の半分程度に減ってしまったと言われますが、現在でも百軒近い機会製造工場が活発な活動を続けています。

平成四年三月

東京都北区

 

 

東田端鉄道八景

ふれあい橋 暮雪

木の陰に隠れていて、この存在に気が付く人は少ないのではないか。

残り七つ「夜雨やう」「晩鐘ばんしょう」「落雁らくがん」「晴嵐せいらん」「帰帆きはん」「夕照せきしょう」「秋月しゅうげつ」があるらしいが、どこにあるのだろう。

 

ようやく本題の「田端大橋」について

 

田端大橋

昭和十四年三月

東京府

 

旧田端大橋の生い立ち

橋の由来
旧田端大橋は、昭和10年に架設された突桁式下路桁三径間ゲルバー式全溶接橋です。当時、この橋は現場継手部も溶接した文字どおりの全溶接橋として東洋では最初で最大級の橋として注目を浴びました。
この溶接技術は、その頃の造船技術(軍艦建造技術)を生かしたものであり、当時の技術者が遭遇した数々の苦労話が残されています。

橋の概要
 竣工年月日 昭和10年12月27日
 形式    突桁式下路版桁三径間ゲルバー式
 橋長    135m
 橋梁幅   13.80m
 道路幅員  11m(当時)
 総鋼重量  約591t(当時)

残存の経緯
旧田端大橋は、近年経済発展に伴う自動車交通量の増加と年月の経過による老朽化が進んだため、東京都は、昭和62年(1987)に新田端大橋を架設しました。
新田端大橋が開通したことにより、本橋の役目は終り、当初の計画では撤去する予定でありました。しかし歴史的にも学術的にも貴重な橋であり、また地域住民の方々から歩道橋として再生利用の強い要望があることを考え、田端ふれあい橋として生まれ変ることになりました。
平成4年3月                            東京都北区

 

「北区飛鳥山博物館だより」には次のように記載されていた。
ぼいす37
発 行 日 平成28年9月20日
編集・発行 北区飛鳥山博物館

田端駅は明治29年(1896)に開業し、今年開業120周年となります。平成20年(2008)には、新しい田端駅ビルがオープンし、駅前も大きく様変わりしました。写真は、昭和37年頃の田端駅前の様子です。手前に見える屋根が田端駅の駅舎で、駅前はロータリーになっています。奥に向かって伸びている道路は田端大橋で、両側の歩道には、通行する人も見えます。元々、田端駅には低地側と台地側をつなぐ人道橋が架かっていましたが、昭和初期、付近の発展に伴い交通量が増大したことから、東京府鉄道省が協議し、田端大橋および接続する道路の整備が行われました。駒込動坂方面から下田端を
経て明治通りへ至る計画道路のための跨線橋として作られた田端大橋は、昭和10年(1935)に完成しました。すべて電弧(アーク)溶接を用いて作られた鉄骨造で、写真に見える歩道と車道を隔てる壁状のものが橋の主桁になります。それまでの鉄骨造の橋梁はリベットで接合することが一般的でしたが、全長134mの田端大橋は、当時実用化が進んだ電弧溶接を本格的に採用し、溶接橋梁としては世界的な橋長を誇りました。橋桁の製作は神戸に所在した川崎造船所艦船工場が請け負っています。田端大橋は、桁と橋脚部を保存し、その上に歩行者通路を新たに設けた「田端ふれあい橋」として現在も
使われています。

 

田端ふれあい橋を降りたところにこれを発見した。

昭和十四年三月

東京府

と彫られている。

 

ふれあい橋にあったものと同じだ。

 

プレート

ところどころ読めないところがある。

昭和九年 ○○○第六一號

株式會社 川崎造船所製作

一等橋荷重

鐵道

東京府

材料

L.日本製鉄株式会社

E. ○    上

L.○上.日本鋼管株式会社

○.○野製鉄株式会社

 

ここには昭九年とある。

田端大橋は、昭和10年(1935)に完成したそうなので、それより前である。

石に彫られているのは昭和十四年だ。

昭九年と昭和十四年、この年号は何を意味するのか、調べた限りは分からなかった。

 

○○○第六一號の○○○は何と読むのか?

 

一等橋荷重については、調べていたところ、古い基準かもしれないが「道路構造令により,その路線の重要性、交通量、通過荷重などを考慮して、自動車荷重20tonで設計されたものを一等橋、14tonで設計されたものを二等橋としている。」というものがあった。

 

アルファベットのL、E(ではないかもしれない)の意味は?

 

○野製鉄とはどこか?

 

なぜこれがここに設置されているのか?

なぜ説明板がないのか?

なぜこれをふれあい橋に設置しなかったのか?

 

ネットで調べてみたが、知りたいことがわからないことだらけで、鉄道マニアでもない自分の限界を感じた。

更新情報(2023年1月15日)

久しぶりの更新情報となる。

今までも更新した記事があるのだが、何をいつ更新したか思い出せない。

 

昨日(2023年1月14日)一日で新たに発見・再発見したものがある。

すでに紹介済のものばかりだったので、それぞれの記事に追加した。

 

①下記の記事で「旧町名 荒川区日暮里町」を紹介したことがある。

citywalk2020.hatenablog.com

 

新たに「日暮里町三丁目」を発見したので追加した。

 

 

②下記の記事で電力プレート「イリヤ」を2枚紹介したことがある。

citywalk2020.hatenablog.com

 

新たに「イリヤ-30」を発見したので追加した。

 

 

③下記の記事で「旧町名 台東区御徒町」を紹介したことがある。

citywalk2020.hatenablog.com

 

この町会会員プレートはかなり前に写真を撮っていたのだが、どこの物かわからなかった。

今回の訪問で「御徒町一丁目」時代のものだと分かったので追加した。

 

新しいところを探索しなくても

今まで探索したところを再度探索すると

見落としていたものを発見することがある。

新たな発見をすることがある。

今まで見向きをしなかったものに興味がわくことがある。

戸田市基準点 世界測地系(GRS80楕円体)

2022年末の12月29日、後谷公園を訪問したついでに、すぐ近くにある戸田市役所を訪問したところ、基準点なるものが設置されているのを発見した。

 

四方に同じものが刻まれている。

 

真上には戸田市役所の位置が刻まれている。

 

汚れていてわからないが、この中に基準点が設置されているのだろうか?

役所にこのようなものが設置されていたのを見たのは、初めてかもしれない。

戸田市のホームページを検索してみたが、これについて記載されている資料は見つからなかった。

 

基準点とは?(国土地理院のホームページより)

地球上の位置や海面からの高さが正確に測定された三角点、水準点、電子基準点等をいい、地図作成や各種測量の基準となるものです。
これらの基準点は、すべての測量の基礎として、公共測量、地籍測量、地殻変動観測等に使用されます。
また、都市計画、都市基盤整備、電力・ガスの事業計画や管理、観光開発、交通網の整備、環境管理、福祉計画等に必要な地図作成に基準点が使用されます。

 

基準点も国土地理院が管理する電子基準点や基本三角点などのいわゆる国家基準点と、地方自治体が管理する公共基準点があるそうだ。

これは戸田市が設置したものだから、公共基準点になるのだろう。

 

世界測地系とは?(国土地理院のホームページより)

VLBIや人工衛星を用いた観測によって明らかとなった地球の正確な形状と大きさに基づき、世界的な整合性を持たせて構築された経度・緯度の測定の基準で、国際的に定められている測地基準系をいいます。

 

日本測地系というのもあったそうだが、測量法が改正され、2002年(平成14年)4月に、位置を表す基準が日本測地系から世界測地系に移行されたそうだ。

 

GRS80楕円体とは?(国土地理院のホームページより)
GRS80(Geodetic Reference System 1980:測地基準系1980)は、IAG(International Association of Geodesy:国際測地学協会)及びIUGG(International Union of Geodesy and Geophysics:国際測地学及び地球物理学連合)が1979年に採択したもので、地球の形状、重力定数、角速度等地球の物理学的な定数及び計算式からなります。GRS80では、楕円体の形状や軸の方向及び地球重心を楕円体の原点とすることも定められています。この楕円体をGRS80楕円体といい、現在、地球を最もよく近似している楕円体として広く用いられています。

 

ふ~ん、こういうものがあるんだ。

素人なもんでさっぱりわからない。

 

 

戸田市役所内にある平和像

その後ろにヒマラヤスギが植えられている。

 

作業のお知らせが掲示されていた。

このお知らせによると全て伐採されてしまうようだ。

戸田市のホームページを検索してみたが、たぶん、見つけられなかっただけだと思うが、このことに触れている情報は見当たらなかった。

結構いい景観だと思うのだが、管理が大変なのだろうか?

 

融合と発展の像

もとはピカピカだったのだろうけれど、随分汚れてしまっているなあ。

 

戸田市文化財案内図

指定文化財の中にいくつか庚申塔があるようだ。

近いうちに訪問してみよう。

埼玉県戸田市で発見した旧町名『東京市日本橋区御幸通薬研堀町』

当然表札ではない。

旧町名の痕跡が表札で残っているのがベストかもしれないが、元の所在地では完全に消滅してしまっているものも少なくない。

しかし、神社や寺院の中を探索していると旧町名の痕跡が残っていることが結構ある。

それだけではなく、学校、公園、バス停のなどの名称にも残っているものもある。

すでに当ブログではそのような痕跡をいくつか紹介しているが、これからも積極的に紹介していこうと考えている。

 

戸田市内にある寺院で発見した。

どこの寺院だったっけ?

あそこかな?

もしかしたら、神社だったかもしれない。

いや、やっぱり寺院だったよな。

立ち寄ったのは、「平等寺」だけだったと思うし、きっとそうだ。

何かの文化財を見に来たはずだが、見つからず、代わりにこの旧町名を発見した、のだったと思う。

 

と書くことでもないことを書いてしまった。

こんなこと読者にとってはどうでもいいことだ。きっと。

 

発見日  2022年12月29日

発見場所 埼玉県戸田市笹目六丁目5-4(たぶん)

昭和五年四月 吉日

東京市日本橋
御幸通薬研堀町四十六番地

と読める。

京都市のように通名+町名のようになっているが、正しくは「日本橋区薬研堀町」のようである。

 

薬研堀の痕跡が何か残っていないか探しに、東日本橋を訪れた。

 

薬研堀不動尊

 

提灯が連なって並んでいた。

やげん堀の文字があるが、なぜかひらがな。

漢字だと読めないからかな。

 

地図に載っていた写真

 

これは実際の薬研堀不動尊のお堂

ここにも提灯がぶら下がっていた。

 

ホームページより

御本尊・不動明王尊像は、崇徳天皇の代、保延3年(1137)真言宗中興の祖・興教大師・覚鑁上人が43歳の厄年を無事にすまされた御礼として、一刀三礼敬刻され、紀州根来寺に安置されたものです。

その後、天正13年(1585)、豊臣秀吉勢の兵火に遭った際、根来寺の大印僧都が尊像を守護して葛籠に納め、それを背負って東国へ下りました。やがて隅田川のほとりに有縁の霊地を定め、天正19年(1591)堂宇を建立しました。これが薬研堀不動院のはじまりです。幾多の変遷がありましたが、明治25年(1892)真言宗智山派大本山川崎大師平間寺の別院となり、今日に至っています。

 

境内点景

 

納めの歳の市之碑

歳の市は年末に正月用品を商う市のことで、江戸時代の中頃から各所で市がたっていた。一時中断されていたが昭和40年、地元の町会、商店街の有志が江戸以来の伝統行事、下町の風物詩を後世に残すことを考えて、薬研堀不動尊歳の市保存会が結成され再開された。
この碑は保存会結成30周年を記念して平成8年に建碑され歳の市の由来等が刻まれている。

碑陰の記
遠く江戸時代の中頃より江戸の街では十二月に入ると各地で歳の市が立った
歳の市とは門松 〆縄飾り 羽子板等の正月用品を売る市を云う かつて東京の歳の市は十二月十四日 十五日の深川八幡に始まり 浅草観音 神田明神 芝の愛宕神社 平川湯島の両天神を廻って最後は二十八日の薬研掘不動尊で終り 特にこの市を薬研堀不動尊納めの歳の市と言われた 初めの頃は梅の盆栽が売られ梅の市とも呼んでいた 戦前は何十軒もの羽子板屋が不動院門前に並び横町には 神佛具 臼 杵 まな板 ざる 箒等の迎春用品の露店が出店し 当時の千代田小学校の通りには「かさ市」が立ち 〆飾り 門松 竹 海老 こんぶ等が 威勢よく売られ 身動き出来ぬ位の人出に下町情緒豊かな歳末風景がみられた
先の大戦の頃は戦火の拡大と共に一時中断してしまい戦後なんとか復活させたものの時勢に合わずさびれる一方であった
時移りようやく昭和四十年地元の町会商店会の有志が是非とも江戸以来の伝統行事下町の風物詩をしっかりと後世に残すべきと「薬研堀不動尊 歳の市保存会」を組織して 同時に近隣問屋街とも協賛し 衣料品 日用雑貨等を市価の半額で販売する「大出庫市」を併催することとなり苦心経営の末 最近になってようやく往時の賑わいを取り戻すことが出来た 有り難いことです
又 想いめぐらせば戦前戦後を通じて 本院の大本山である川崎大師平間寺の厚いご加護を一貫して賜ったことも復興への銘記すべき事柄である
本年は 大出庫市を併催して 丁度 三十年の節目に当たるので 歳の市復活に情熱を燃やした先人達を偲び 此の町の今日までの 歳の市への過ぎ越し方をこの碑に留め一つの証とする
平成八年四月十五日
薬研堀不動尊
歳の市保存会

 

順天堂発祥之地碑

江戸時代当地は、医者街といわれたほど、医者が多く住んでいた。順天堂の学祖と仰がれている佐藤泰然が、天保9年(1838)に和蘭医学塾を開講した地に、現在の当院境内地が含まれていた。この縁から、学校法人順天堂の申し出により境内の一隅を提供し「順天堂発祥之地碑」が建碑された。

 

講談発祥記念之碑

古い記録によれば、安政5年(1858)「太平記場起源の碑」が建立され、その後当院境内に移されたが、大正12年(1923)の関東大震災で講談ゆかりの碑が消滅した。現在の碑文は平間寺第44世貫首 髙橋隆天大僧正の撰・筆であり、昭和59年12月1日に再建されたものである。

由来の記
元禄の昔, 赤松清左衛門は浅草見附辺の町辻で 太平記を講じ, 江戸講釈の発祥となった。これが 後に「太平記講釈場」に発展して長く庶民に親 しまれ, 安政年間,「太平記場起原之碑」が建て られた。この碑はその後, 当不動院境内に移され 大正十二年の関東大震災まで名物となっていた。
この度, 当不動院講談協会との因縁により, 真言宗宗祖弘法大師一千百五十年御遠忌を記念し, 相はかって茲に新たに建碑をなすものである。

大僧正 髙橋隆天撰書

弘法大師一千百五十年御遠忌記念

昭和五十九年秋吉祥
大本山川崎大師平間寺
東京別院薬研堀不動院
講談協会
建之

講談発祥の資料提供
日本大学国文学部教授
民俗芸能研究家
永井啓夫

 

やげん堀七味唐辛子本舗奉納品

唐辛子屋さんがあるのかと思い探してみたが見つからなかった。

事前調査していればよかったのだが、行き当たりばったりが多い。

この記事を書いているときに調べたところ、昭和十八年に浅草に移転してしまっていたのだった。

何と戦前のことではないか!

なぜ移転してしまったのだろうか?

浅草寺の方が人の集まり、商売になると考えたのかもしれない。

 

薬研堀不動尊が載っていたのはこの地図だけだった。

薬研堀跡は載っていない。

 

日本橋  商店会案内図

白く消されたところは何と書いてあったのだろう?

現在は「東日本橋やげん堀商店会」となっているようだ。

 

商店一覧

この中に大木唐からし店(東日本橋2-21-6)がある。

というか、あったというべきか。

調べていたところ、2021年(令和3年)7月31日で閉店してしまったことが分かった。

閉店の理由は「店主高齢のため」らしい。

1656年(明暦2年)創業と360年以上の歴史がある店だったようだ。

知るのが遅すぎた。

残念。

 

御幸通り

両国橋たもとから日本橋中学校の前、東日本橋交差点を経て常盤橋に至る通りを地元は「みゆき通り」と呼んで親しんできた。発端は震災後の昭和5年復興視察をされたとき、千代田尋常小学校に立ち寄られ、その時に通った道路に「御幸通り」の名称がついた。現在、日本橋中学校の校庭一角に記念碑が立つ。

 

歴史

1872年(明治5年)
薬研堀埋立地と旗本村越豊之助等の隣接の武家地を併せて薬研堀町が起立。

1878年明治11年)11月2日
東京府日本橋区に所属。

1889年(明治22年)年5月1日
東京府東京市日本橋区に所属。

1903年明治36年
薬研堀は完全に埋め立てられ、堀としては消滅したが、地名としては残った。

1933年(昭和8年
帝都復興計画の一環により、殆ど全てを両国に編入。町域は地図に載らないほどの極狭となった。

1943(昭和18年)7月1日
東京都日本橋区に所属。

1947年(昭和22年)3月15日
東京都中央区日本橋薬研堀町となる。

1971年(昭和46年)4月1日
住居表示の実施により周辺の町を併せて東日本橋二丁目に編入となり消滅。

 

地名の由来

隅田川べりにあった堀で、薬研(薬種を細かく砕く船形の器具)に似ていたことから、薬研堀といい、町名となった説がある。

 

薬研堀」という町名が残っているか調べたところ、広島県広島市中区にあった。

こちらは、広島城を囲む堀の一つに薬研堀があったことから付けられたようだ。

さいたま市南区沼影でタイムスリップ感を味合う

埼京線武蔵浦和駅から徒歩数分で、電柱と電線、舗装された道がなければ、江戸時代へ一気にタイムスリップした気分になれる場所がある。

 

ここはさいたま市南区沼影。

駅前は高層マンションが立ち並ぶ。

 

登録有形文化財 細渕家住宅長屋門

文化財オンラインより

屋敷東辺に建ち、南北棟の切妻造、桟瓦葺で、南半を門口、北半を部屋とする。門口は出桁造で中央に扉を吊り北端に潜戸を設ける。欅材を用い、乳金具や八双金具等も多く、武家門の重厚感がある。岩槻城からの移築という伝承は、形式や細部から,信頼性が高い。

さいたま市ホームページより

屋敷の東側に設けられた木造平屋建、切妻造、桟瓦葺の長屋門です。
明治期に移築された武家屋敷の門で、正面右側に潜り戸、番所を持ち、左側は納屋につながっています。門構え部分が内に入り込んだ「立ち隠れ」を持ち、重厚な雰囲気を残しています。この地域の豪農としての格式と景観的要素を伝えています。

この長屋門は江戸時代後期の建築と言われている。

細渕家は旧沼影村の村長などを務めた旧家。

 

田島通りから見たところ

 

納屋

 

田島通り沿いの板塀と高層マンション

違和感ある景色、一瞬で令和の現代へ引き戻される。

 

道を挟んだところにも立派な門がある。

 

田島通りを更に進むと右側にまた、立派な門と板塀が続くお宅がある。

 

ずっと続く板塀。

奥に駅前に立つマンションが見える。

 

庭にはミカン(種類不明)が生っていた。