2023年1月19日、加須市を探索していると神社があった。
何と言う神社なんだろう?
一礼をして、北側鳥居から入る。
千方神社だった。
社務所に貼られていた「千方神社 境内のご案内」を見る。
えっ!
何と石敢當があるではないか!
沖縄だけに存在するものだと思っていた。
石敢當とは中国古代の力士の名だといわれ、中国では町や村の境や辻に建てられ、災害や疫病の守護神として祀ったものといわれている。
表面には石敢當・文化十四年丁牛冬十一月長至日、鵬斉陳人興国と刻されている。
この石敢當は文化・文政時代の六斎市(五・十の市)即ち毎月五日・十日・十五日・二十日・二十五日・三十日の六日間開かれた。
この碑は五・十の市の繁栄を願い、市の世話人によって建立されたもので、旧仲町、現在の中央二丁目加須鴻巣線県道(通称銀座通り)大辻近くにあったものを神社の境内に移したものである。
この石敢當の文字は、江戸時代の儒学者亀田鵬斉の書である。裏面の文章は穂積恭という博学の人物が記したものである。破損した部分をセメントで補修したため、全文を読み解くことは極めて難しい。五・十の市が禍事なく朝日の如く栄え、日夜の守護永からんことを祈る。と結んでいる。
裏面の最後に次の和歌が刻まれている。
恵梨そめぬ石能軍の君可代裳八千代の数の里の農方万母里述(石の様に強い石敢當の神様、八千代に亘り数をお守り下さいの意)
この和歌は国文学者として名を成した小山田興清が石敢當の建立を祝っ贈ったものといわれている。
文化年間の一流学者であった亀田鵬斉・小山田興清等と変わり、関東で唯一ともいうべき石敢當の建立に携わった博学の穂積恭なる人物の経歴をご存知の方はご教示願います。
森田清正記
書き起こした文章で言うと、4行目と5行目が「この石敢當は~六日間開かれた。」となってしまうので文章としてはおかしいかな。
5行目と6行目の「~六日間開かれた。この碑は五・十の市の繁栄を願い、」を「~六日間開かれた五・十の市の繁栄を願い~」とすればつながりが良くなるのでは。
書かれた森田清正さんに失礼だが、余計なおせっかい。
探してみよう。
広々とした境内
どこにあるんだろう?
浅間神社の裏にあった。
石敢當と説明板
ところどころ補修されているようだ。
高さ約128cm、幅約52cm
上部に唐草と二匹の龍が線刻されている。
石敢當の文字をアップする。
裏面
文字が彫られているが読めない。
石敢當は「いしがんとう」「せきかんとう」と読み、 中国伝来の魔よけの石柱である。石碑が多く、家の門口や道の突き当たりに建てられている。
沖縄・南九州に多く、関東地方で江戸時代までさかのぼるものは、上崎にある龍興寺のものと本例の二例のみ確認されている。この石敢當はかつて、中央二丁目交差点の北西付近から当地へ移設された。
石碑の表面には、「石敢當 文化十四年丁丑冬十一 月長至日 鵬齋陳人興書」とあり、江戸時代後期の文化十四年(一八一七) 冬至に、亀田鵬齋(江戸時代の高名な漢学者・書家)により書かれたことがわかる。
裏面には、石敢當の説明と加須の青縞の市が栄え、守護されるように世話人が建てたことが記されている。また、幕末の国学者小山田興清が詠んだ「この石敢當が、加須の里を末永く守るように」という和歌が刻まれている。
昭和54年3月に設置されていた説明板の内容は以下だったようだ。
昭和31年9月指定
この「石敢當」は、中央二丁目の塩田鉄工所の裏にあったものを、昭和29年10月この地へ移したものである。
文化年間に加須の五・十市の世話人たちによって、市の神様として信仰されたという言い伝えがある。
そもそも「石敢當」とは中国の力士の姓名で、この人の名を石に刻んで守護神としたのがはじまりであるが、また、よくありがちな信仰から疫病除けとしたものと思われ、関東地方にはきわめて稀で九州地方には多く見うけられる。
この「石敢當」の筆跡は、当時江戸でも有名な漢学者であり、書家でもあった亀田鵬斎の書いたもので「文化十四年(一八一七年)丁丑十一月長至日、鵬斎陳人興書」と刻まれている。
『「石敢當」とは中国の力士の姓名』と断定しているが、諸説ある。
『九州地方には多く見うけられる。』とあるが、鹿児島県には千基程度、沖縄県には一万基以上あるらしい。
このような事実があることから、説明文の内容も書き換えられたのであろう。
千方神社(ちかたじんじゃ)
千方神社の由緒
藤原鎌足公十五代の子孫の藤原秀郷公が下野国押領使(九三九年)に任ぜられ善政を施し功績をあげ下野守、武蔵守となる。秀郷の子(六男)藤原千方が鎮守府将軍としてこの地を治め徳政を行った功績により鎮守千方神とし、併せて神武天皇、猿田彦神を祀り千方神社となる。
今年の絵馬
本殿横に彫られていた彫刻