歩・探・見・感

歩・探・見・感

ノスタルジック、レトロ、ディープそしてマイナーな世界へようこそ

中村八幡宮で内務省地理寮水準点(高低几号標)と旧町名「武蔵国久良岐郡中村字八幡」が刻字されている御料地境界標石を発見する。

2024年10月1日、横浜市南区八幡に鎮座する中村八幡宮を訪れる。(家に帰って調べたら、約4年前の2020年11月9日に訪れていたことがわかったが、全然記憶になかった。)

まず目に入ったのが、鳥居の手前に設置されている説明板。

内務省地理寮水準点?

かっこの中に高低几号標と書かれている。

几号水準点のことね。

東京23区内にある几号水準点はすべて訪問したが(しているはずだが・・・)、内務省地理寮水準点と書かれているの見るのは初めてかもしれない。

横浜市地域史跡

内務省地理寮水準点(高低几号標)

 登録年月日 平成十年十一月九日
 所 在 地 南区八幡町一番地
 所 有 者 宗教法人 中村八幡宮
 登録区域  南区八幡町一番地の一部

明治維新以来、わが国が近代国家となっていく上で、測地事業は欠くことのできない事業でした。明治政府は、明治七年(一八七四)一月、内務省に地理寮(後に地理局となる)を設置し、集中的に開港の五港(横浜・神戸・新潟・函館・長崎)や東京・大阪・京都などの主要都市の市街図作成に力を注ぎ、内務省地理寮は、明治一七年(一八八四)以降に参謀本部陸地測量部に移管されるまで測地事業を担当しました。
横浜は、近代測量による地図(五千分の一)が完成した最初の開港地で、明治七年~八年(一八七四~五)に三角測量及び水準測量が行われ、明治一四年(一八八一)に実測図が刊行されました。このときの水準点が内務省地理寮水準点(高低几号標)です。
この水準点は、「不」の記号(几号)を不朽物や石標などに彫刻して標識とするよう内務省から布達されていました。
市内に所在する内務省地理寮水準点のうち、「中村八幡宮」参道入口の角柱に彫刻されているものは、当時の地図と比較して位置が動いていないと思われます。

横浜市教育委員会

中村八幡宮

几号



階段の右下前方にB.Mと刻まれた石があった。

水準点(Bench Mark)だった。

西面には「復」の刻字があるそうだが、気が付かなかった。

参道を進むと古い石標があった。

御料地境界標石

正面

明治廿八年拾月廿六日 委託御許可八幡宮

右側面

䬦別参䬦七畝壱参歩?

左側面

従是東 武蔵国久良岐郡 中村字八幡 御料地

明治政府は太政官達で社寺境内以外の所有地を上地し、官有地第一種皇宮として編入したが、その後社寺林について自然管理の上から社寺に託して保管させるべく社寺上地管林委託規則(明治24年4月農商務省令第5号)を通達。中村八幡宮も1895年(明治28年)に委託された。

歴史
1873年明治6年)5月1日
区番組制により、中村が第1区6番組に編入される。

1874年(明治7年)6月14日
大区小区制により、中村が第1大区5小区に編入される。

1878年明治11年)12月1日
郡区町村編制法により、大区小区を廃して久良岐郡並びに町村を復活。

1889年(明治22年)4月1日
町村制の施行により、中村単独で村制を施行。

1901年(明治34年)4月1日
横浜市編入。同日中村廃止。

1927年(昭和2年)10月1日
横浜市が区制を施行。旧村域が中区になる。

神社入口の鳥居の手前左側にある地蔵尊

由来が書かれていた。

懐古

武蔵国久良岐郡中村千九十七番地に明治三十一年一月三日誕生し当八幡宮五代社掌関佐門殿より愛藏と名を授けられました幼少時には母フサに連れられ宮を拝し境内に飼育せさられて居た鳩と戯むれ或は裏山に登り我が家の庭として遊び毎年九月三日の大祭には山車を引き御みこしを擔ぎ又神楽を見て終日楽しみました思い出があります偶々境内の一隅に毀損しある地蔵尊(大正十二年九月一日関東大震災及昭和二十年五月二十九日の大空襲により被災)を拝し復現を思い立ち専門家に訊ねましたが毀損甚だしく不能との事でした
依って今般宮司海老原寛殿及宮総代各位のご了承を得て平楽竹下石材店に地蔵尊の再現を依頼し完成しましたので謹しみて奉納致します

昭和五十九年四月

平楽 岩澤愛藏