歩・探・見・感

歩・探・見・感

ノスタルジック、レトロ、ディープそしてマイナーな世界へようこそ

『吉田新田関連案内図』を元に吉田勘兵衛ゆかりの地を巡る・・・だけじゃない。

2017年は中区制90周年、吉田新田完成350周年。2017年3月24日これを記念して大岡川の長者橋近くに、吉田勘兵衛の旧邸宅跡周辺の案内看板「吉田新田関連案内図」が設置された。


普通、こういうのを見ると辿りたくなるよね。

いや、普通の人は、目の前にあっても、通り過ぎるだけで、この存在に気が付かない方が多いかもしれない。

見たとしても、辿ろうなんて思う人はごく一部だろう。

特に④は。

地図で見ると平地にあるように見えるが、結構な階段を上らないとたどり着くことが出来ない。

横浜市内の探索は、足腰が丈夫な人でないと難しいのだ。

案内板もないので、この地図だけでは、たどり着くことさえ難しいかもしれない。

①大井戸

この井戸は大井戸とよばれ、吉田 勘兵衛が吉田新田を開いたときに堀ったもので、水質はすぐれ200年にわたって付近住民の飲料水となりました。
昭和20年(1945年)進駐軍によって埋められましたが、昭和62年(1987年) に横浜都市開発史上の一記念物として復元されました。


この井戸は、大井戸と呼ばれ、初代の吉田勘兵衛 (一六一一~一六八六)が、萬治年間吉田新田 (今の伊勢佐木町吉田町一帯約三十五万坪の入江) を開いたときに掘ったもので、水質はすぐれ二百年にわたって付近住民の飲料水となりました。
明治中期、大岡川の水底工事や町に水道が普及してからは、飲料以外にも使われました。
特に災害(大正大震災など)に際しては、防災の役割を果たすなど、市民生活に寄与したが昭和二十年進駐軍によって埋められてしまいました。
今回復旧し、横浜都市開発史上の一記念物としてのこすものです。
当時、その深さは、側石上端より底まで九・三メートル、水深六・九メートルありました。

平成二十年九月

吉田興産株式会社

②清正公堂分院

長者町の清正公様」と呼ばれる清正公堂は、開運の守護神として吉田新田の常清寺の境内に開堂供養したもので、江戸時代より広く庶民大衆に崇敬されていました。
現在、常清寺は南区清水ケ丘に移転しましたが、境内に安置していた清正公堂の別院を「地域の発展と充実に寄与するもの」とし、吉田勘兵衛旧邸宅跡に平成9年(1997年)、建立されました。

清正公堂緣起

通称「長者町の清正公様」と呼ばれる清正公堂は、開運の守護神(勝負の神様)としてご利益があり、熊本の発星山本妙寺より栄玉山常清寺第十世住職として迎えられた不染院日亮上人(文化九年(一八一三年)・一一・二二遷化)が、長者町の境内に開堂供養したものであります。
清正公堂に奉安された清正公大尊祇は、開運の守護神として霊験まことに顕著でであり、江戸時代より広く庶民大衆に崇敬されてまいりました。戦災により常清寺は南区清水ヶ丘に移転しましたが、境内に安置してありました清正公堂の別院を、当地長者町九丁目の吉田新田埋立地・初代吉田勘兵衛住宅跡に建立し、地域の発展と充実に寄与するものとしたのでありなす。毎年、五月四日、五日に行われる五月大祭には、ご運強かった清正公にあやかって人生の苦悩に打ち勝ち幸運に恵まれますよう「しょうぶ入り御勝守」が授与されます。これは「勝負に勝つ」という意味のお守りで、清正公信仰のみなもととして遠近から多数の参詣祈願者が訪れております。

行事

一、清正公五月大祭 五月四日、五日しょうぶ入り御勝守授与

二、清正公正当会  六月二十四日 午前十一時

三、信行会     毎月二十四日 午前十一時

吉田興産株式会社

浄行菩薩について

 清正公堂と並んで奉安している石造りの「浄行菩薩」は、「生存者を愛し、いつくしんで楽を与え、生存者をあわれみいたんで苦を除き清らかな心で生存者を救済する。」と説かれているように、地涌の菩薩の中で、特に、浄行菩薩は霊験あらたかな菩薩と言われております。
菩薩像のそばに浄水とタワシを備えおき、水をそそぎタワシで洗う。そこで一名を「洗い仏」とも呼んでいるが、浄行菩薩は生存者の身体に楽を与え、 苦を除く神通力を発揮する菩薩様で、例えて言えば足の悪い人は浄行菩薩の足の部分を念入りに洗い願をかければその希望をかなえてくれる 腰を病む 人は浄行菩薩の腰の部分を、背中の痛い人は背中を胸の悪い人は胸の部分をよく洗い磨きたて強く念ずれば、必ずや祈願が満足すると言われております。

平成十年二月吉日

吉田興産株式会社


思はずば
 横濱を知る
  人ならじ
 万治の春に
  下しつる鍬

      与謝野鉄幹

明暦に 
 鍬初めをこそ
  なされけれ
 海を大地の 
  用に足るべく

      与謝野晶子

この二首の和歌は昭和三年に吉田家が刊行した「吉田新田古図文書」を贈られて、その感想の揮毫を求められたのに対し、
鉄幹の歌は、万治二年(一六五九年)の春二月に開始された吉田新田の鍬入れの事を思わなければ横浜を知る人ではない 
晶子の歌は、明暦二年(一六五六年)に始まる吉田新田の開発によって入海が大地へと変貌したことを称讃する

③吉田勘兵衛の旧邸宅図



以前はこの辺りにレンガの倉庫があったそうだが、駐車場になっていた。

ストビューで確認したら、2009年8月までは確認できた。



町内のビルの壁に書かれていた長者町小唄 

一 春は桜の長者橋
  かもめの群れ飛ぶ川面から
  色とりどりの店店に
  ほほえみ交わす顔と顔
  夢逢う街はああ長者町

二 ここは長者の屋敷跡
  君知らずとも横浜を
  生みいだせし勘兵衛さん
  願かけまする清正公
  夢買う街はああ長者町

三 川面に映るネオン街
  歩めばはやる心うた
  ハマは第二のふるさとと
  異国の言葉にぎやかに
  夢追う街はああ長者町

この歌の2番の歌詞の中に「ここは長者の屋敷跡 君知らずとも横浜を 生みいだせし勘兵衛さん」と"吉田勘兵衛"のことが書かれていた。

長者橋


1851年(嘉永4年)の記録では土ハシ
1873年(明治6年)の記録では権兵衛橋と呼ばれていた新田、石川村を結ぶ重要な橋でした
現在の橋は関東大震災で焼失後の1927年に着工 翌1928年に竣工されたアーチ橋です
初期の日ノ出町青年会メンバーが橋を磨いた所 当時の重鎮が御影石は苔がついて風流になるのに磨いてしまってはダメだと怒られてしまったそうです。
こうして私達日ノ出町では昔からとても愛されている橋なのです。(K.T)

上流側にある公衆トイレの中には認定歴史的建造物になった記念で長者橋の成立ちや昔の写真等が掲示されている。

~長者橋の成り立ち~
長者橋は吉田新田の開発に伴い大岡川に架けられたのが始まりです。明治6・7年頃には木の橋となり、大岡川右岸にある長者町から「長者橋」と名付けられました。

~震災復興橋梁~
長者橋は関東大震災で消失しましたが、震災後の復興事業により鉄筋コンクリート造の橋に架け替えられました。それが、現在の長者橋です。

~昔の長者町通り~
開港当初には、東海道から横浜港に向かう唯一の経路として利用されていました。
復興事業により幅員の拡がった長者橋には、昭和46年まで市電が走っていました。

天神阪碑に向かう途中の階段で木製電柱を発見する。

こんな場所だから残っているのかもしれない。

④天神阪碑

昭和9年(1934年)に建立されました。
碑には万治2年(1659年) 吉田勘兵衛が幕府に吉田新田の埋め立てを申請して許可を得、天神山及び石川中村の大丸山を切り崩し、その土砂で新田を埋め立てた土取場の跡であることと、これに伴って通行の用に供していた無名の 坂道を「天神阪(坂)」と命名した由来が記されています。

井戸?

隣には先が見えない天神坂の階段

行き先に何があるのかわからないので、無謀なチャレンジは避けたのは言うまでもない。

草に隠れているのでわからないが、右側に閉ざされた出入口があるらしい。

近くの跨線歩道橋の下には、日ノ出駅

トンネル



西区東ヶ丘にある「急坂」という名称の坂

坂の途中の踊り場にある標柱から上を見る。

踊り場にある標柱から下を見る。

一番上から見える景色。

曇り空。

長さ110m、高低差24m、平均斜度12度、段数77段

横浜の坂には慣れているので、それほど急には感じなかった。
かつて市内で一番急な坂と言われていたのは、瀬谷区相沢4-15にある通称天竺坂で、傾斜角20°、勾配36.4%、しかし、その後の調査により鶴見区北寺尾7-24にある急坂が21.7°(39.7%)であるということがわかり、現在ではこれが1番らしい。

ただ、ルールが4つあり、

1車が通行できる
2公道
3行き止まりにならない(通り抜けられる)
4短すぎない(目安として20メートル以上)

だそうなので、階段だけの坂ならもっとすごいのがありそう。

ちなみにギネス記録を持っているのは、イギリス・ウェールズのハーレックにある「フォルズ・ペン・スレフ(Ffordd Pen Llech)」という坂道で、勾配37.45%とのこと。

そうなると鶴見区北寺尾7-24にある坂は39.7%なので、ギネス越え!?

この記事の主役は坂ではなかったよね?

最後は坂の話になり、吉田勘兵衛ゆかりの地とは関係なくなってしまった。