外人さんに人気のスポットのようで、ひっきりなし写真を撮りに来ていて、なかなか撮るチャンスが訪れなかった。
花園稲荷神社の鳥居
花園稲荷神社の御縁起
大祭 四月十一日
講祭 十一月十一日
祭日 毎月十一・午の日
御由緒 鎮座の年月、由緒は不詳ですが往古より此地にあり「穴の稲荷」又は忍岡稲荷と云われました
承応三年(三百三十年位前)天海大僧正の高弟晃海僧正が霊夢に感じ廃絶のお社を再建して上野の山の守護神としました
この附近より北西一帯が寛永寺のお花畑であったので明治六年花園稲荷と改名し昭和三年現社殿にお遷ししました
旧社殿の跡は俗称「お穴様」と呼ばれ
晃海僧正再建の記が刻まれた岩穴が現存します。
安産の神とも云い、特に縁談、金談の願がけにいただく「白羽の矢」は古来から有名です。
上野観光連盟
今時珍しい手書きの御縁起が渋い。
また、新たなターゲットを見つけてしまった。
それは旗竿ボックス。
マンホール蓋とは違うが、同じマニアの方が収集しているようだ。
そのがこれ。
鳥居の左右の柱の前あたりにあった。
右
左
旗竿ボックスとは旗や幟などを立てるための穴とのこと。
続いては旧町名編
上野公園通り側の鳥居
五條橋
旧町名「下谷區上野三橋町」が刻まれていた。
社号碑
右側面
伊勢 市川進 謹書
左側面に旧町名が刻字されていた。
上野町一丁目 上野町二丁目 上㙒三橋町 上野五條町
「數寄屋町」の「數」は「数」の旧字体。
「上㙒三橋町」だけ「㙒」は「野」の旧字体。
どれひとつ旧町名の痕跡は発見できていない。
「上野三橋町」の旧町名由来案内
本町は、明治二年(一八六九)上野仁王門前町と仁王門前上野家来屋敷の東側、そして北大門町飛地と上野役人屋敷を合併し、その地域を町域にして起立した。
町名は町の南西、御成道(現中央通り)、不忍通りとの交差点のあたりに三橋という橋があったことに由来する。橋の名は、不忍池から流れ出る忍川に三つ並んで架設されていたことにちなむという。ほかに将軍が寛永寺墓参の折に渡る橋なので、御橋といい、それが三橋に転訛したとする説もある。定説の三つの橋は、真中の橋が将軍専用で、両側の橋が一般の通用橋であったという。忍川は昭和初年に暗渠になり、そのため橋も消えた。
昭和三十九年(一九六四)の住居表示では大部分が上野四丁目になり一部JR高架線下が同六丁目になった。
旧町名区域図
社号碑に刻まれていたほとんどの旧町名の位置が確認できる。
撮影日 2024年11月26日、12月1日他