歩・探・見・感

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霞野神社と旧町名だらけの「女影ヶ原一ノ宮 霞野神社合祀記念碑」

JR川越線の駅、武蔵高萩駅から探索していると、神社を発見。

訪問日  2024年11月11日

訪問場所 埼玉県日高市女影付近

霞野神社

「村社」の部分にコンクリートが詰められていたが、はっきりと文字を確認できる。他の神社でもよく見かけるが、いつもそのままでいいのにと思うのは自分だけであろうか。

本殿

文化財等をまとめて紹介している説明板

☆霞野神社の本殿 付 剣道の懸額 市指定文化財 建造物
平成2年3月10日指定

当初は諏訪神社と称し女影村社でしたが、明治43年に女影村社の白髭神社、中沢村社の白髭神社など12社を合祀して霞野神社と改めました。
祭神に猿田彦命、柯遇突智命、建御名方命など14身を祀っています。
本殿は江戸時代末の作と考えられています。柱の上の組み物と呼ばれる箇所は、上部からの加重を支える部分です。ここには、獏、獅子頭の彫刻が施されています。身舎の前方に庇を付けた形式の一間社流造で、屋根はこけら葺きです。
懸額は、文久元年(1861年)四月穀日に、甲源一刀流の比留間和十郎源信治の門弟が奉納したものです。

☆霞野神社の獅子舞諸道具 市指定文化財 有形民俗文化財
昭和57年12月8日指定

昭和30年代の例祭は10月17日に行われ、豊作祈願と雨ごいを祈願して氏子が獅子舞を奉納していました。諸役は、獅子、天狗(猿田彦命)、オカメ(天鈿女命)、貝吹き(山伏)、ササラ、ひょっとこ、笛方、歌方です。獅子は男獅子、女獅子、太夫獅子の3頭で一組です。
現在、獅子舞は行われていませんが、獅子頭、天狗面、オカメ面、ほら貝など使われていた諸道具が、氏子により大切に保管されています。

次に紹介するのが旧町名だらけの碑

女影ヶ原一ノ宮 霞野神社合祀記念碑

表面

右側に「埼玉県入間郡高萩村大字女影字諏訪山四四四番地」と刻まれている。

裏面

合祀誌 女影ヶ原一ノ宮 旧名 諏訪明神

明治四十三年十月五日埼玉県指令により入間郡
萩村大字女影字諏訪山四四四番地鎮座諏訪神社同四
四三番地琴平神社同字宿西八幡神社三柱神社八雲神
同字小河原天神社稲荷神社同字北竹ノ内八二五番地
白髭神社同字山神社同村大字中沢栁久保二二一番地
白髭神社同字宿方愛宕神社同西腰金山神社同字森ノ
白山神社同山下滝神社の各社をもって明治四十三年
十月十七日大字女影諏訪山四四四諏訪神社に合祀社
號を霞野神社と改称した
 昭和五十年四月十五日   霞野神社氏子中

☆女影ヶ原古戦場跡 埼玉県指定文化財 旧跡
昭和36年9月1日指定

建武2年(1335年)に、滅亡した鎌倉幕府最後の執権北条高時の遺児時行が、鎌倉幕府復興のために信濃で挙兵しました、時行の軍は女影ヶ原で足利尊氏の弟直義が派遣した軍勢を破りました。その後も小手指ヶ原(所沢市)、分倍河原府中市)でも破りました。ついには直義自ら出陣して、武蔵出ノ沢(町田市)で迎え撃ちましたが、ここでも敗れました。時行は鎌倉を一時的に支配しました。この一連の戦を中先代の乱といいます。

史蹟 女影ヶ原古戦場跡



鎌倉街道
鎌倉時代に幕府の所在地の鎌倉と東国を結ぶために整備された道路です。鎌倉街道には、信濃、越後方面を結ぶ「上道」、奥州方面を結ぶ「中道」、下総、常陸方面に向う「下道」の三本の幹線道路がありました。
日高市を通過している「上道」は狭山市柏原から入り、大谷沢、女影、駒寺野新田を経て毛呂山町大類へと向います。
霞野神社の西を南北に走る鎌倉街道の「上道」は、度々中世の合戦の舞台となった歴史の道です。

平成21年1月
日高市教育委員会

鎌倉街道上道

霞野神社から15分くらい歩いたところにある。

鎌倉街道は、中世武蔵武士団が、鎌倉へと馳せ参じた道である。その代表的なものが、「上道」、「中道」、「下道」である。この呼び名は、大和盆地に古く南北に通じる幹線道路があり、それに倣ったものといわれている。
鎌倉からの上道は、藤沢、町田、府中、所沢へと向い、狭山市入間川を渡って、日高に入り、市内大谷沢から中沢、高萩、女影、別所、旭ヶ丘、駒寺野新田と道筋をたどり、坂戸市の西大家に抜け、毛呂山、鳩山、児玉、藤 岡、高崎に続いていた。
かって、新田義貞の軍が菅谷から市内女影を通って入間川を越え、小手指原などて鎌倉方と戦ったが、この上道を進軍したとされている。 
また、北条時行信濃に挙兵し、鎌倉を足利勢から奪回するため市内女影ヶ原で戦って勝利し、多摩町田に軍を進めたのもこの鎌倉街道上道。高麗原の戦いなど足利尊氏対新田義典・義宗の武蔵野合戦、更には足利基氏対芳賀禅可入道が戦った苦林野の合戦もこの鎌倉街道をたどる戦いであった。これ らは、言わば鎌倉街道をめぐる上の合戦として有名で、太平記に伝えられている。
時代とともに、鎌倉街道上道を伝える関東各地の道筋もさま変わりし、往時の面影を伝える個所も少なくなり、幻の道になりつつある。それぞれの地で幹線道路となり道幅も広がり、舗装もされ、法敷きも整備され、交通量も多くなっている。この碑の前の上道も、 立派に道路整備され市道として役目を 果たすようになった。
より便利になるのは、時代の趨勢でもあるが、この地の古老は、彼らが少年の頃まだ十分古道の名残りを留めていた上道を偲んで、今でもこの道を鎌倉街道と呼んでいる。

平成三年十一月七日

日高市教育委員会

鎌倉街道の道筋



鎌倉街道上道の碑

鎌倉街道は「いざ鎌倉」という時に各地から板東武士が馳せ参じた古道である日高市の東部を南北に走っている この上道といわれる鎌倉街道は今でもこの地の人に鎌倉街道と呼ばれ親しまれているが ところによっては幻の街道といわれ忘れられようとしている
市制を施行する年に当たり今後の市の発展と同時に永くこの地に鎌倉街道上道の名が伝えられることを祈念し建立したものである。
揮毫は日高市教育委員会教育長飯野五郎氏の手によるものである。

平成三年十月吉日

日高市教育委員会

南方面

北方面

この碑が無ければ、ただの道にしか見えない。

次に紹介するのは、霞野神社付近にあったもの。

右:聖徳太子講の碑 左:筆塚

聖徳太子講の碑

文久三癸亥星合(1863年

台座に刻まれている文字 木挽中

筆塚

何と刻まれているのかは調べてもわからなかった。

道しるべ

正面

右ハ 扇町屋 八王子道 

左 入間川 所沢道

扇町屋は(八王子)千人同心日光道の宿場だった。

右側面